感動したがる社会(2)

感動したがる人びと
 
もちろん、こうした「感動」流行りの状況を苦々しく感じたり冷ややかに見て、これらは本当の「感動」ではないとする向きもあろう。「感動」とは知性・感性・倫理など高度な精神の内発的な働きであり、強烈な感動が個人の人生を変えることもしばしばある、といった意見である。そうはいっても、先のアンケート調査のように、世の中は感動というキーワードへの関心とそれをもとめるニーズは高まっているようだ。

そして受け手が「これで泣ける」とか「これで感動できる」と予定調和的な効能をもとめ、その期待を裏切ることなく提供する映画や小説、ドラマなどが軒並み生産され、ヒットしているのも事実である。評論家の大塚英志は、この感動の商品化に対応した消費状況を「物語のサプリメント化」だという。たとえば、泣くということはカタルシス(精神浄化)であるから、これらは感情の機能性商品としてもとめられているモノだというのだ。

いっぽう、こうした感動ブーム(?)に対して、主に精神医学や臨床心理などの分野から"境界不鮮明化" による一種の社会病理現象だとみる意見もある。おおよそは次のような見解である。目まぐるしく変化する現代社会では、大人と子ども、男と女、世代間、社会的役割、仕事と遊び、あるいは季節や昼夜など、ありとあらゆる面で差異性の境界が不鮮明になり、正常と異常の区別が曖昧になってきている。

心の病気にいたらない健康な人の間にも、そうした境界意識の希薄化が広がり、日常的に感情の起伏を直接表出しやすい人たちが急増している、というのだ。突如、感情を暴発させ「キレる」人や、クレイマーやモンスター・ペアレンツなどの増加、さらには詰らぬ小競り合いに端を発した衝動的な殺人事件の頻発などが、報道記事で多く取り上げられることが、ここ十数年顕著なのも確かである。
 
こうした現状認識の限りでは、泣く、笑う、怒るといった感情は、以前よりもはばかることなく表出しやすい傾向が強まっているようであり、特に若い世代になればなるほど、自分の感情をうまく扱うことができなくなってきているという指摘もある。つまり、感動しやすい高感度で繊細な感性が成熟してきたのではなく、理性や悟性により感情をコントロールする能力が著しく低下しているというのである。

また、その背景として、急速に普及したインターネットや携帯電話、ビデオゲームなどICT&マルチメディア技術への適応不足や過剰適応が、感性面での現実と仮想との境界融解を加速させ、生活リアリティや実存感が欠如した気分を蔓延させている、とする見方もある。確かに携帯電話でいつでもどこでも話せ、インターネットにつなげば調べものが容易にできる便利な時代になった反面、現代人はじかに他者と会話し接触することから距離をおくようになっている。

インターメディアは、コミュニケーションの密着性が表層的には感じられても、道具を間にはさんだ違和感や不自然さが常につきまとう現代社会特有のコミュニケーション環境を形成する。インターメディア利用の広がりとともに「こころの知能指数」と呼ばれるEQ(Emotionally Intelligence Quotient)なる言葉や、「空気」が読めるの読めないの、といったような感情の距離感を測りあうことが流行ったが、これなどもそんな時代のムードを反映しているのだろうか。
 
こうしたバックグランドがあるとするなら、今後において、人びとは「感動」を提供する商品や、「感動」が享受できるリアル・コミュニケーションの場や機会をより求めていくことになるのかも知れない。そしてそこに資源としての感動価値というものが感じられそうだ。
 
新たなテクノ・スケープの台頭は、人びとの心身を変容させる。だとしたら感動の感受の仕方や、感動に対する価値意識も、インターメディア時代の前後では変わってきているのかも知れない。ならば、これから「感動価値の創造」というテーマを考えていくにあたっては、こうした現在進行形の変容状況や、その延長にある未来形のイメージも射程に収めておく必要があるのだろう。
 
次回では、感動と消費文化のかかわりに目を向けてみようと思う。(・・・・to be continued