2009年5月アーカイブ

感動とはなにか(1)

「感動」という言葉

 

あらたまって「なぜ感動するのか」「感動とはなにか」と問われた場合には、それが個人的な主観体験であり過ぎるためか、しばし言葉に窮し、答えようにもどこか焦点が定まりづらい感がある。

 

さしあたって「感動」を言葉の面から少しみていくと、まず「感動」は学術用語ではないから、学術的な定義はない。

 

そこで手近な辞書、広辞苑を開けてみると「感動」の語義を"名詞。深く物に感じて心を動かすこと"と簡潔に示してから、「名画に感動する、感動を覚える、感動にひたる」の用例が続く。

 

広辞苑よりも大きな辞書、日本国語大辞典を開けてみると、

    1. 強い感銘を受けて深く心を動かされること、
    2. 人の心を動かして感情を催させること、
    3. 他からの刺激に反応すること、作用を受けて動くこと、または動かされること

の3つの語義を示している。 ついでに言えば、この辞典の大きな利点は、語義それぞれに歴史的用例の記載があることだ。つまり、史料で遡れる限り、それがいつの時代から使われているのかがわかるのである。

 

せっかくなので、少し道草すると、「感動」という言葉の最も古い記載は平安時代初期の「性霊集」で

「糸竹金土、感動鬼神」

とある。同じような記述は南北朝時代の「太平記」にもあり、

琴の音を聞いて鬼神が感動した

とある。

また南蛮交易初期の外語辞典「日葡辞書」には

zuiqui cando(ズイキカンドウ):訳⇒歓喜と喜悦」

とある。

 

また、「感動」の古語は「感ける(カマケル)」である。再び広辞苑をのぞくと

    1. 感ずる、感動する、心が動く。
    2. 一つのことに心をとられて、他がおろそかになる。拘泥する

と語釈されている。ついでに言えば、「感けわざ」という古語は「神に捧げる豊作祈願の踊り」のことである。

 

次に英語で「感動」に相当するのは"impression""emotion"、あるいは"excitement"である。

 

また、感情も英語で"emotion"であり、辞書には「〈気持〉〈心持〉のような、人間の心理状態の受動的で主観的な側面」とある。

 

心理学など科学分野では"emotion"を「情動」と訳し、「怒り、恐れ、悲しみ、などのように急激に生起し比較的激しい一過性の心的作用をさす。自律神経系の興奮による発汗や循環系の変化、あるいは表情の変化など身体的表出を伴うことが多い」としている。

 

英語のemotionと日本語の情動/感情のニュアンスの差異について補足すれば、心の動きで急激で強いものは情動、そうでないものは感情、といった感じだ。また、精神医学や心理学ではさらに、感情(emotion)と気分(mood)を区別することもある。これからの展開で、しばしば"心脳"分野の話題にふれるが「感動」それ自体についてひも解く際には、専らこれらの用語を使い分けて話を進めていくことにする。

 

ところで、「感動」の表現語彙はどれだけ広がりがあって、どのように分類できるのか。それについては、NHK放送技術研究所による「感動の分類と感動の評価語についてという先行研究がある。

 

技研では、音響システムの開発技術を評価するために、周波数特性など物理量の良さだけでなく、人が感覚的に感じる良さを尺度に加え、その基準に「感動」をおいた。ところが、感動には喜びや悲しみなどのさまざまな心理状態があり、しかもその定義は研究者の間でも曖昧なものだった。

 

そこでアンケート調査で150の感動表現語を収集し、個々のニュアンスの類似度(言葉のニュアンスの心理的距離)をクラスタ分析して、3つの感受対応の仕方のもとで、「感動」として内包されるニュアンスを、6カテゴリーと12クラスに分類している。(下表)

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[. 感動の分類と感動の評価語:NHK放送技術研究所.2005年に基づき作成]

 

なお、この研究報告書では、「感動」を"肯定的な体験を表現する総称であり、伴う感情の質だけではなく、心が動く向きによって分類される"ことがわかったと結んでいる。

 

また、大手広告代理店の博報堂は、イベント・プロモーションの価値測定手法「EVM」というコンサルテーション・サービスを開始している。その中でイベントの特性である「感動という質的効果」を指標化しており、その評価属性として「感動」を次の3つの価値群と10個の要素に分類している。

 kansoken09052502.jpg

[. 感動の質的評価の属性:博報堂「EVM」プレスリリースに基づき作成]

 

「感動」という言葉とそこに内包されるもの、についてはここまでとして、次回はその"価値"はなにかというところをみていこうと思う。                    (・・・・to be continued

感動を消費する社会(4)

物語消費とシーン消費

 

ところで、「コンテクスト・マーケティング」というマーケティング用語がある。

 

消費者行動の背景にあるコンテクスト(文脈)に則して行なうマーケティングで、ユーザ個人の日時・場所・行動などの状況に沿った形でタイミング良く、情報や商品、サービスを提供していくマーケティング手法のことである。近ごろではインターネット広告やデジタル・サイネージといった分野でよく用いられている。

 

その手法の一つに「物語マーケティング」がある。しつらえた物語(コンテクスト)にユーザを感情移入させ、その心理を巧みにくすぐりながら展開するマーケティング・テクニックである。

 

物語マーケティングの前に、それと対応する「物語消費」という概念についてふれておく。これについて80年代に評論家の大塚英志が指摘していることは前にもいった。大塚は「ビックリマンチョコ」を例に、意図的に断片化された物語を読者、受け手が想像/創造しながら消費していく行動パターンとそのマーケットの姿を示した。

 

「ビックリマンチョコ」というのは、1977年にロッテが発売したカードシールをオマケとした子ども向けのお菓子である。「悪魔VS天使」などのシリーズがあり、シールの裏面にはそのシールのキャラクターの性質やそれらが存在する世界、そこで展開している壮大な物語の断片らしい文章が思わせぶりに載せてある。子どもたちはシールをコレクションするうちに、この「壮大な物語」の存在に気づき、その物語世界にアクセスしようと商品を買い続ける。

 

次第にその収集熱はヒートアップし、目当てのシールだけを抜き出して本体のお菓子を捨てるという事態が全国で多発し、当時は社会問題となった。

 

従来から子どもたちの収集欲を刺激するシリーズ物のオマケは食玩分野の商品戦略の定番だったが、それはあくまでシリーズ物を集めることが目的だった。ところが「ビックリマン」の場合では、キャラクターたちの物語の断片集めにはじまる物語世界の"再構築"が目的になっているところに大きな違いがあることを、大塚は指摘した。

 

つまり、単なるオマケ付きお菓子だった商品を、子どもたちが「物語」という商品に転換して消費したのである。いいかえれば、消費者(子ども)が勝手に"付加価値商品"をつくりだし、勝手に熱中消費したのである。この新しい消費傾向を大塚は「物語消費」とした。

 

ここで「物語消費商品」を戦略化し仕掛ける「物語マーケティング」に話題を戻す。「物語マーケティング」を唱えた福田敏彦は、著書「物語マーケティング」(竹内書房新社1990年)の中でマーチャンダイズされる商品に次のものを挙げている。取り上げた例は今では古いが、そのまま引用する。

 

◆RPGゲームや物語コンテンツ商品のように直接物語を売るもの

◆「ビックリマンチョコ」のように背景に物語が潜んでいるもの

◆サンリオなどのキャラクター商品、ビール「冬物語」のようにネーミングで物語を使用したもの

◆からくり時計のようにプロダクトデザインが物語性をもつもの

◆「東京ディズニーランド」や「サンリオピューロランド」のようなテーパーク、物語性をもった店舗空間

◆物語型の広告など。

 

福田は続けて「物語マーケティング」のコンセプトを拡張し、「物語消費」より広い概念として「シーン消費」と「シーン・マーケティング」という概念を提案した。

 

「物語消費」は、物語(コンテクスト)への感情移入とその心理誘導や演出により誘発されるものであるが、「シーン消費」は、商品を使用するシーン(場面)と、それを使用するTPO(シークエンス)をひっくるめて消費者が選択をする行動パターンをいう。そのためシーン消費は、消費者のライフスタイルと直接的に関連し、彼らの側もシーンを消費すると同時に、その中に自分のアイデンティティを重ね合わせて表す意識をますます強めていくことになる。

 

このシーン消費を刺激する「シーン・マーケティング」の典型的な手法は、たとえば、ファッション・グッズ関連の情報誌が、「クリスマス・イブを二人で幸せに過ごす時の...」のような情景を設定し、どんなファッションが決まるとか、どこへ行けば感動的な一日が演出できる、といった設定を重ねてシーンを描き、そのストーリーラインに沿って商品情報を紹介するようなやり方である。

 

だからシーン・マーケティングは、経験価値経済型マーケティングの典型といえる。

 

シーン・マーケティングは、マーケティング分析が価値観多様化の中で具体的な顧客像の把握に限界が感じられたため、あえてそれを放棄し、このように特定場面を想定した上で、そこに登場する人物が抱くであろうニーズを仮説設定する方法をとってみたわけだが、それが意外と効果があったことで生み出された。

 

これまでもテレビドラマや映画製作の分野では、場面中の小道具に特定商品を露出し対価を得るなどで製作コストを抑える"タイアップ"はあったが、それとは似て非なものだ。

 

つまり、シーン・マーケティングの最もユニークなところは、これまでのマーケット・セグメンテーションが現実に存在するニーズを分類する手法であったのに対し、意図された特定の物語シーンへの共感や感情移入の度合いを強化していくことで、それまで現存しなかった新しいニーズを創造する可能性を広げたところに方法論としての価値がある。

 

舞台/劇場空間化した都市空間の演技/観客者である消費者に演じさせるために、必要な進行台本と演出方法にあたるのが、これらなのである。

 

これまでふれてきたことを整理すると、次のようになる。

  1. 高度成長期以前の消費は基本的に「必要なモノを買う」消費だった。あるモ  ノが欲しいのになかなか手に入らない。だからこの意味で稀少価値というものが存在し、消費はそれを獲得する欲求充足以外のなにものでもなかった。
  2. ところが、その後の経済成長の中で生産が増大し基本的な欲求や必要を十分満たしてしまってモノが有り余る段階になると、消費の様相も一変した。生活する上で必要最低限のモノやサービスの消費を第一義におくことから、新しいモノ、かわいいモノ、珍奇なモノ、気分を持ち上げてくれる徹底的に演出されたサービス、自慢できる体験、ファッショナブルな空間などを選択基準に消費するようになった。
  3. このことは、自己満足もふくめて他者との関係における意味、つまり「社会的意味」において消費する意識が支えており、たとえば「自分らしさ」「リッチな気分」「ハイセンスな生活」といった対象の表示する意味それ自体を消費することが行動に直結しやすくなった。
  4. インターメディア社会の急速な進展やディズニーランドの開園等をバックグランドに、モノそれ自体の価値だけでない、感性・情緒世界の非リアルな価値による判断意識が加速される。また、それとともに非日常の気分が日常生活にも滲み出ていくようになり、経験価値経済、都市空間の劇場空間化、物語・シーン消費、などの消費文化傾向が顕著になっていった。
  5. 社会傾向として感性や情緒がビジネス面でも優位性を示しつつある一方、脳科学や認知科学などの研究が急速に進展し、それまでの医学や心理学などの領域から、経済・マーケティングや経営分野にも拡張しはじめ、ビジネス界のキー概念として関心が集まるようになってきた。

 

こうした、状況や変動に対し、「感動」という概念やその体験がどのような意味合いを持ち、いかなる価値を持つのか。これからの時代における「感動価値創造」というものはどのようなものであるのか。背景状況についてはここまでとして、次回からは「感動」それ自体について考えてみようと思う。(・・・・to be continued

感動を消費する社会(3)

劇場化する都市空間

 

次にそうした消費シーンが展開される生活空間について目を向けてみよう。

 

高度消費社会以降、90年代あたりから、日本の都市開発分野では、都市空間の劇場空間化というテーマをよく見聞きするようになる。ただしそれは劇場を中核においた都市開発のことではなく、都市に劇場の記号性を与えるという意味で、人びとを装わせ演技させるメディアとして都市空間をとらえて活用しようとする考え方である。

 

2000年代になり、バブル崩壊のほとぼりが冷めたあたりから、都市再開発の分野でこのフレーズが再び聞かれるようになってきた。

 

現在では、わざわざ都市記号論を援用するまでもなく、都心近在や地方の少女にとっての「竹下通り」や「渋谷」、オタク系にとっての「秋葉原」や「池袋」、女性や若者にとっての「東京ディズニーランド」や「六本木」「代官山」、高齢者にとっての「巣鴨地蔵通り」、といった街の意味合いを少し考えてみれば、都市空間の劇場化という見方は実感できるだろう。

 

この都市空間の劇場化というコンセプトの着想の背景に、テーマパーク、というよりも東京ディズニーランド(ディズニー・リゾート)の出現があった。

 

ディズニーランドは、それまでの単なる来園者を「ゲスト」として扱い、従業員は「キャスト」と称し、その空間環境を非日常的で祝祭的な舞台装置として造形演出する。さらに園内だけでなく周辺のホテルや商業施設も同様の環境演出等で巻き込みながら、一帯の都市空間を劇場空間化して非日常型消費を活発にする装置産業を創り出した。

 

こうした劇場的都市空間あるいは祝祭的都市空間の登場以降、人びとの間にそれを使いこなす生活感覚が増えはじめ、次第に非日常的雰囲気が日常空間に急激に滲み出るようになった。そこに都市開発や都市再生の手法としての有為性が見出されるようになったのである。

 

「舞台/劇場空間」の記号性を帯びた空間は、自然とそこを往来する人びとを"演技者"とし、かつ"批評性を備えた観客"にする。

 

見るだけでなく見られる場所。そこは「ファッションを売る場所」であるだけでなく、「ファッションを着ていく場所」となり、「ソフィスティケートを顕示し合う場所」へと変わっていく。

 

現代の都市生活者は、TPOにあわせて空間を選択する行動スタイルを持つようになっている。そして選択で色分けされた場所の意味合いは、よりセグメンテーションと先鋭化を強めていく。つまり、その場所に付与された記号性が自律的に意味を再生産し、より発信性を高めていく空間装置と化していくのである。

 

こうした "舞台/劇場空間"としての特権性を獲得した都市空間における人びとが演じるパフォーマンスについて、吉見俊哉は高度消費社会特有の意識状況を分析しながら、以下のように描き出している。

 

【そこでは〈演じる〉こと自体のなかで演じる者の個性が発見されていくのではなくすでにその意味を予定された「個性」を〈演じる〉ことによって確認していくという意味で、〈演じる〉ことはアリバイ的である。一方では、演じる主体としての「私」が個別化された私生活のなかに保護され、他方では、演じられる対象としての私の個性」が都市の提供する舞台装置や台本によって保証される、そうした二重の機制が、人びとの関係性を様々な生活場面で媒介していくために、人は、「個性」を選択することが個性的であることを証明し、「私の世界」をもつことが自己のアイデンティティを証明することでもあるかのように感覚していくのだ。】(「都市のドラマトゥルギ――東京・盛り場の社会史」弘文堂1987)

感動を消費する社会(2)

高度消費社会の消費文化

 

それでは、いかなることで、こうした経験価値経済や人の深層レベルにまで踏み込んだマーケティング、あるいは "感動消費社会"傾向が顕著になってきたのか。まずはそのいきさつを消費文化の高度経済成長期から現在まで状況の推移を少しおさらいしながら見ていく。

 

1980年代に日本は本格的な高度消費社会に達したとされる。高度消費社会が成立するための前提条件は、国内における生産過剰である。そこで企業は新たな供給先をもとめて海外輸出を拡大するとともに、国内では新たな需要を喚起し消費させるための新しい価値観を提案していくことになる。

 

その結果、まず消費の個人化が起こった。たとえば、それまで一家に一台所有することが目標だった家電や自動車などの耐久消費財が、一人に一台の普及を目指すようになった。また、消費の対象が物からサービスへ重心を移し、外食、娯楽、旅行などの消費機会が増えた。

 

商品・サービスが多様化した結果、人びとの関心はモノの実質以上に、デザインやブランドなどの差異性や、消費行為自体がもたらす「気分」や生活のファッション性へ向かうようになった。

 

それ以前の70年代前半までの消費に内包された目的は「物的豊かさへの希求」だったが、そこには、近代化、洋風化、さらには新しい家族観や国際人としての日本人になることを目指すという社会的意味もあった。

 

しかし、70年代半ばに一億総中流(という気分)が達成されてからは、それまでの誰もが同じ物を消費する「大衆消費社会」とは様相が変化し、「少衆」「分衆」論に代表されるような、市場細分化現象への発言が活発になりだした。

 

また、その一方、少衆・分衆論はマーケティングとしては正しくても、消費社会論としては的外れとする批判もあった。中流化や近代化といった誰もが共有していた消費の社会的意味がひと区切りし、消費することの意味を個人が引き受けなくてはならない新しい時代が始まったとする意見である。

 

戦後日本の生活文化や価値観に大きな変化が起こったこのあたりから、消費行為にともなう心的事象や"物語性"といったものが、戦略ツールとして意識されはじめたのではないだろうか。

 

続く80年代のバブル景気が到来すると、ポスト消費社会をめぐるさまざまな見解が提示されはじめた。その代表的な見解のいくつかをあげ、当時の風潮を振り返ってみる。

 

劇作家・評論家の山崎正和は論文「柔らかい個人主義の誕生」で、消費が個人的な行為であればこそ、それが社交文化や人格(品格)の洗練につながる可能性があることを示した。

 

対して社会学者の西部邁は、社会的意味のない自己満足的な消費の無秩序な増殖は大衆社会独特の頽落の危険であると批判した。

 

一方、大塚英志は都市民俗学の視点と、当時ジャーナリズムに出はじめたポストモダン文化論を援用しつつ、大きな社会的意味に代わって小さな個人的意味をもとめる「物語消費」の台頭を指摘した。

 

また、作家田中康夫はデビュー小説「なんとなく、クリスタル」にはじまる論調で、"岩波文庫もルイ・ヴィトンも、それを所有する者にとっての精神的ブランドだという点では等価である"と指摘した。それに対し文芸評論家の江藤淳は、ブランド所有に代表される消費行為は自己顕示であり、異性を引きつける手段であり、他者のまなざしを想定した行為であったが、さらにいえば、欧米という他者への依存意識(アメリカの影)に支えられているに過ぎず、個人的意味(自分らしさ)への追及などではないと批判している。

 

他方、広告・コマーシャリズムの状況として、PARCOに代表される西武セゾングループの「おいしい生活」をはじめとした一連のイメージ広告がある。それには消費の新しい社会的意味の問いかけと、自分らしさの追求の可能性を示唆する感覚もあったため、広く注目された。

 

また、マーケティングの世界ではJ・ボードリヤールに代表される消費記号論の流行があった。消費社会は商品という記号が多様性と差異性のもとで記号ゲームを演ずる、そのためにもマーケティング戦略には記号演出が必要だとする。

 

マーケティングに記号論を導入しようとするこれらの試みも、あくまで消費文化論の域を出ず、ビジネス現場での実効性が不明瞭なこともあって、「デザインが勝負」「ネーミングやブランドで売れる」といった短絡した風潮や誤解、混乱を一部にもたらしただけにとどまっている。

 

それでは高齢少子と経済の低成長、格差社会といわれて久しい現在の様相はどうなのか。

 

ボランタリー経済やエコロジー消費などのような「柔らかい個人主義の誕生」で期待した成熟消費の萌芽が感じられるとはいえ、評論家東浩紀が「動物化するポストモダン」と表現したような、ただ欲求を即座に満たすことだけが目的で、自己満足的な「動物的」なものになっているようにも思える。別にいえば、消費行動という経済合理性による価値判断が働きやすい行為が、知性や理性ではなく、感情や感性といった「情動的」なものに優位性を示す傾向が顕著な印象が強い。