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感動を消費する社会(2)

高度消費社会の消費文化

 

それでは、いかなることで、こうした経験価値経済や人の深層レベルにまで踏み込んだマーケティング、あるいは "感動消費社会"傾向が顕著になってきたのか。まずはそのいきさつを消費文化の高度経済成長期から現在まで状況の推移を少しおさらいしながら見ていく。

 

1980年代に日本は本格的な高度消費社会に達したとされる。高度消費社会が成立するための前提条件は、国内における生産過剰である。そこで企業は新たな供給先をもとめて海外輸出を拡大するとともに、国内では新たな需要を喚起し消費させるための新しい価値観を提案していくことになる。

 

その結果、まず消費の個人化が起こった。たとえば、それまで一家に一台所有することが目標だった家電や自動車などの耐久消費財が、一人に一台の普及を目指すようになった。また、消費の対象が物からサービスへ重心を移し、外食、娯楽、旅行などの消費機会が増えた。

 

商品・サービスが多様化した結果、人びとの関心はモノの実質以上に、デザインやブランドなどの差異性や、消費行為自体がもたらす「気分」や生活のファッション性へ向かうようになった。

 

それ以前の70年代前半までの消費に内包された目的は「物的豊かさへの希求」だったが、そこには、近代化、洋風化、さらには新しい家族観や国際人としての日本人になることを目指すという社会的意味もあった。

 

しかし、70年代半ばに一億総中流(という気分)が達成されてからは、それまでの誰もが同じ物を消費する「大衆消費社会」とは様相が変化し、「少衆」「分衆」論に代表されるような、市場細分化現象への発言が活発になりだした。

 

また、その一方、少衆・分衆論はマーケティングとしては正しくても、消費社会論としては的外れとする批判もあった。中流化や近代化といった誰もが共有していた消費の社会的意味がひと区切りし、消費することの意味を個人が引き受けなくてはならない新しい時代が始まったとする意見である。

 

戦後日本の生活文化や価値観に大きな変化が起こったこのあたりから、消費行為にともなう心的事象や"物語性"といったものが、戦略ツールとして意識されはじめたのではないだろうか。

 

続く80年代のバブル景気が到来すると、ポスト消費社会をめぐるさまざまな見解が提示されはじめた。その代表的な見解のいくつかをあげ、当時の風潮を振り返ってみる。

 

劇作家・評論家の山崎正和は論文「柔らかい個人主義の誕生」で、消費が個人的な行為であればこそ、それが社交文化や人格(品格)の洗練につながる可能性があることを示した。

 

対して社会学者の西部邁は、社会的意味のない自己満足的な消費の無秩序な増殖は大衆社会独特の頽落の危険であると批判した。

 

一方、大塚英志は都市民俗学の視点と、当時ジャーナリズムに出はじめたポストモダン文化論を援用しつつ、大きな社会的意味に代わって小さな個人的意味をもとめる「物語消費」の台頭を指摘した。

 

また、作家田中康夫はデビュー小説「なんとなく、クリスタル」にはじまる論調で、"岩波文庫もルイ・ヴィトンも、それを所有する者にとっての精神的ブランドだという点では等価である"と指摘した。それに対し文芸評論家の江藤淳は、ブランド所有に代表される消費行為は自己顕示であり、異性を引きつける手段であり、他者のまなざしを想定した行為であったが、さらにいえば、欧米という他者への依存意識(アメリカの影)に支えられているに過ぎず、個人的意味(自分らしさ)への追及などではないと批判している。

 

他方、広告・コマーシャリズムの状況として、PARCOに代表される西武セゾングループの「おいしい生活」をはじめとした一連のイメージ広告がある。それには消費の新しい社会的意味の問いかけと、自分らしさの追求の可能性を示唆する感覚もあったため、広く注目された。

 

また、マーケティングの世界ではJ・ボードリヤールに代表される消費記号論の流行があった。消費社会は商品という記号が多様性と差異性のもとで記号ゲームを演ずる、そのためにもマーケティング戦略には記号演出が必要だとする。

 

マーケティングに記号論を導入しようとするこれらの試みも、あくまで消費文化論の域を出ず、ビジネス現場での実効性が不明瞭なこともあって、「デザインが勝負」「ネーミングやブランドで売れる」といった短絡した風潮や誤解、混乱を一部にもたらしただけにとどまっている。

 

それでは高齢少子と経済の低成長、格差社会といわれて久しい現在の様相はどうなのか。

 

ボランタリー経済やエコロジー消費などのような「柔らかい個人主義の誕生」で期待した成熟消費の萌芽が感じられるとはいえ、評論家東浩紀が「動物化するポストモダン」と表現したような、ただ欲求を即座に満たすことだけが目的で、自己満足的な「動物的」なものになっているようにも思える。別にいえば、消費行動という経済合理性による価値判断が働きやすい行為が、知性や理性ではなく、感情や感性といった「情動的」なものに優位性を示す傾向が顕著な印象が強い。