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感動の源泉(3)

感動の役割

 

脳科学では感動をどのように解釈しているのか。

 

脳科学者アントニオ・R・ダマシオ著「感じる脳」(ダイヤモンド社刊)によれば、知性や感性を含めた判断力こそが人間であることの証明であり、それを磨くために「感動」が重要な役割を果たしているという。

 

そして、知性・情緒・意識という人間の精神活動を肯定的に結ぶものとして「感動」があるとする。

 

人間の大脳の前頭葉は思考の統合作用を受け持ち、そこに蓄積された情報を整理し活用する場である。そして前頭葉のこうした作業の判断基準が「意欲」や「価値観」である。つまり、どのような価値観を持つか、どのような欲望を持つか、あるいは何を目的とするかによって脳内では体験記憶の整理のされ方が異なる。

 

現代の脳科学では、やる気や意欲を含む感情のシステム「生きる上で避けることができない不確実性への適応戦略」と解釈する。

 

たとえば、生きる意欲というものは、先が見えていない何が起こるか分からないといった不確実性へのチャレンジであり、脳を活性化させる重要な要素である。

 

確かに人生では、十分な与件がないまま選択を迫られる局面が無数にある。そうした時に、人間は感情の動きで結論を選択する場合がほとんどである。

 

したがって、ある行為判断の選択決定は、人間脳とされる大脳皮質の論理推論によって判断しているようだが、実際には、動物脳の大脳辺縁系での感情の働きにより判断が下されていることは前にもいった。つまり、人間は知能と感情を複雑にからみあわせながら、不確実状況に対処する判断をしている

 

また、人間と他の動物をくらべた場合では感情の種類の数が決定的に違う。前回のプリティックの感情分類を思い返せば分かるように、人間の感情の種類は圧倒的に多い。

 

こうした上でダマシオは「感動は、人間だけが持つ豊富な感情レパートリーを再び集約した結果に生まれた、最も人間らしい心の動きだ」という。感動が複雑な混合感情だからこそ、本当に感動体験を味わった時に、それが「とても言葉では言い尽くせない」ものとなるのである。

 

人間の大脳は自分の体験していることに対し、感情をつかさどる情動系システムとそれまでの経験により培った価値観と照らし合わせる作業をする。そしてその新しい体験が自分を変える大きなきっかけになると察知した時に、感動が起こる。だから感動で涙を流すのも、今体験していることが脳や人生の変革機会になると脳が察知した反応のひとつといえる。

 

このことから、ダマシオは感動の価値を「脳が記憶や感情のシステムを活性化させて、今まさに経験していることの意味を逃さずにつかんでおく働きである」とし、「脳が全力を尽くして、今経験していることを記録しておこうとしている。生きる指針を痕跡として残そうとしている。そのプロセスに感動がある」という。

 

また、感動は個々人ごとの主観内で意味を持つ体験だが、社会の価値観や環境といった文化的側面により強化されるという。

 

たとえば何かに感動した時に、周囲の人たちがそれは素晴らしいことだと後押ししてくれるか、あるいはくだらないと拒否されるか、その反応次第で脳の働きは全く変わってくる。それは人間が社会的動物で、周囲に受け入れられたいという欲求があるからである。

 

そして同意と共感を獲得するために、感動を態度や言葉、創作などで表現し、かつ、それにより感動の回路はどんどん強化されていくのである。

 

 

共感の回路

 

感情の共有、共感回路ということについて、もう少しふれておけば、たとえば他者が痛みを感じるのを見て、自分も痛みを感じるような気がする。そういう共感する感覚は、人間だけではなく他の動物の脳にも組み込まれている。

 

脳の情報処理は他者が体験している感覚や思考を共有することが苦手だが、感情については一瞬の間に伝わり共有されやすい性質をもっている。そして、それは生物進化における種の存続戦略に由来するものである。

 

共感のメカニズムには1996年に発見された、ミラー・ニューロン(mirror neuron)という神経細胞が深くかかわっている。ミラー・ニューロンとは文字通り、自分の行動と他人の行動を、あたかも鏡に写したかのように反映して活動する神経細胞である。

 

ある一つの同じ神経細胞が、自分が行動する時と、同じ行動を他人がするのを見た時に、同じ活動をするのがミラー・ニューロンである。

 

つまり、人は脳の中に鏡を持ち、そこに他人の表情やしぐさを写し出す。そしてそこに写し出されたものと自分の体験を即座に照らし合わす作業をするのである。

 

しかし、ミラー・ニューロンさえあれば相手の気持ちが分かるというものではない。ミラー・ニューロンはサルの脳から発見されたものだが、サルには人間同士のように複雑な気持ちの共感はない。抽象的・論理的な思考能力が人間だけに備わっているからである。 人間の抽象的・論理的な思考能力は言語能力に由来する。脳の共感回路自体にはミラー・ニューロンが深く関わっているが、この言語による抽象論理思考がない限り相手の微妙な心のニュアンスを推し量ることはできないのである。

 

そうはいっても、実際での人間同士のコミュニケーション現場では、相手の表情やしぐさなどの言葉以外の反応がかもし出す気配によっても、大きく支配されがちである。これら非言語コミュニケーション(non-verbal communication)については、別の機会で深くみていくつもりだ。

 

ついでながら、ここで少し話を脱線し、感情の共有や共感に関連するものとして興味が惹かれるユニークな研究を紹介する。

 

それは岡山県立大学の渡辺富夫教授(情報システム工学)の「心が通うコミュニケーションシステムE-COSMICEmbodied Communication System for Mind Connection)」というテーマの研究である。

 

それによれば、対話、会議、講演などさまざまなインタラクションやプレゼンテーションの場があるが、その際に人と人の間に、うなずきのような肯定や同意を表わす身振りをするロボットやCGなどを介在させると、円滑なコミュニケーションを促進する効果があるという。

 

インタラクションの場にそうしたメトロノームのような介在者をおくとその身振りに引き込まれて、対話者相互の身体的なりズムが共有され、一体感が実感できるようになり、議論の活発化などコミュニケーションが円滑化して知的生産性も向上するというのである。だから「引き込み理論」と呼ばれることもある。

 

つまりはこういうことである。発話者は相手の反応を気にしながら対話を進めるが、相手が肯定的なそぶりを見せると気分が乗ってしゃべりやすくなるものだ。それで対話者相互の顔色を見ながらタイミングよく、うなずくなどの肯定的な身振りをするインターフェイスをおくことで会話を弾ませる雰囲気を演出する、というわけだ。いわば、コミュニケーションのムード・メーカとしてのシステムである。

 

この引き込み理論は、近頃では癒し系の情緒玩具に応用されはじめてきたが、感動コミュニケーションを構成するシステム技術の一つとして、注目しておいてもいいだろう。

 

 

感動を起こすもの

 

話を戻すと、「感動」を知性・情緒・意識という人間の精神活動を肯定的に結ぶものとした場合、それを引き起こし、かつ活性促進する具体的な物語化するためのコア・モチーフは何かというと、ダマシオは「意外性」と「なつかしさ」をあげている。

 

ここでいう「意外性」とは、それまでの見方が新しい見方へ転換することをいう。

 

つまり見方を変えて物事をとらえ解決する必要があり、かつその方向感までは漠然と感じる隔靴掻痒の状態があった時、突如としてそれから解放された瞬間、そこに感動体験が生じるという。パズルや問題が解けた時、いいアイディアを思いついた時、といった日常的なレベルから、大発見、大発明が発想できた瞬間での感動体験、ありていにいえば「目から鱗が落ちる」ことがこの「意外性」ということである。

 

脳科学者の茂木健一郎が流行らせた「アハ体験(Aha experience)は、この意外性の感動を応用した脳の強化学習法の一つである。アハ体験では0.1秒の瞬間に脳内約一千億もの神経細胞が一斉に活性化するという。

 

もう一方の「なつかしさ」とは、単にノスタルジー自体のことを指しているのではなく、その情感も含め、ある物事を自らの暮らしや人生に感情的に引き寄せたり、照らし合わせておこる感動のことである。特に現状との引き寄せや照合に際して心が激しく騒ぐが、その意味が判明せずモヤモヤし、突如それが解消した状態での感動、いわゆる「腑に落ちた」感動である。

 

さらに引き寄せ照合したところ、たとえば生命進化の連なりや宇宙連環への一体感、あるいは心理学者ユングのいう集合的無意識での「元型体験」と自己体験との照応、といった「大きな物語」との連帯を感じた時は、いっそう深い感動となる。

 

これら「意外性」と「なつかしさ」に共通しているのは、生きるための見方や準拠枠の再編や転換、つまり、自己におけるパラダイム転換の創出活動であるということだ。脳科学ではそれを「種の生存のための活路探索」と解釈する。

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このことから、われわれは「感動」という言葉を一般用法的にではなく、たとえば"人間の感性の内、世界と自己に覚醒と活性をもたらすもの"といった、独自の意味合いを持たせて考えていく必要があるのかも知れない。

 

また、こうした意味合いに親和性のあるキーワードとして、近頃見聞きするようになった「センスウェア(senseware)」という言葉も思いあたる。直訳すれば「感覚の道具・製品」で、ハードウェアやソフトウェアという発想からこぼれやすいものをとらえていこうという、第三のデザイン概念である。

 

日本総研の井上岳一はこのセンスウェアを「人の感覚を刺激することを通じて、新たな世界の見方や世界との関わり方を発見させる道具」と総じて言い、「センスウェアが問うのは、実用性や機能性よりも、人の感覚をどう覚醒させるかにある」としている。

 

これらの見方を流用して、今後考えていく感動価値とそのコンテンツというものについては、「人の感覚を刺激することを通じて、新たな世界の見方や世界との関わり方を()発見させるツール(モノ・コト)」という広がりを持たせた意味合いでひとまずとらえてみるものとして、以降に続く話題を展開をしていこうと思う。

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何とか連載も十回を越えたので、次回からは方向性を変えて具体的な事物と感動をめぐる話題に移ろうと思ったが、感性領域での感動の位置づけがどうなっているのか、というリクエストがあったので、その前に特別回として、このテーマについて少しふれておくことにする。

(・・・・to be continued