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経験経済と感動価値

 

感動とビジネスを考えていく上で、参考になる見方のひとつに「経験価値経済」がある。

 

経験価値経済という言葉はまだあまり一般的ではないが、マーケティングの世界ではある程度常識的な概念として、しばしば目につくようになってきている。その基本文献でもある「経験経済(Experimental economy)」(BJ・パイン、JH・ギルモア著)の出版が流布のきっかけである。

 

経験価値経済の考えによれば、高度に成熟した消費社会や市場では、性能・品質・価格訴求だけのプロダクツ型経済や、顧客便益をカスタマイズするサービス型経済ではない、製品やサービスを付加価値づくりの道具として用いることで顧客の経験を演出し、消費価値を感じさせることが重要なのだという。

 

経験価値経済化するまでのプロセスを大掴みにいえば、まず、成熟社会の特徴として「目が肥えた消費者(トフラーのいう"プロシューマ")」が台頭しそれが一般化すると、彼らは商品を取り巻く経験(体験)までを含めた事柄に対して付加価値感を持つようになり、その上で幾らの価格が本当に自分にとって妥当なのかを考える癖がついてくる。この意識が広がりを持ち深まるにつれ、消費(需要)側が独自の価値意識で値付けをおこなう市場が形成される。

 

たとえばオタク市場のようなマニア同士の世界や、画商・骨董商などのプロ同士の市場では、モノの値段が、市場に出てくる前におおよその相場観として決まっている。特定の価値観を共有する者同士が、その価値観上での鑑識のもとで商品の値付けをおこなう世界だからだ。今、こうした経済行動が、マニアやプロの領域を超えて、一般消費の世界に広がりつつあるという。

 

品質や性能ではなく、プラス付加価値のある商品。こと経験経済における付加価値は、供給側が付与するモノそれ自体に備わった付加価値ではなく、需要側の勝手なこだわりや思い入れをモノに投影した幻想が生み出す付加価値である。さらにそこには、モノの消費自体を目的としない、モノを消費するプロセスを通じて何が経験できるかということも含まれる。経験価値経済では、このような感覚も含めて付加価値とするのである。

  

限定の高級ブランド品を購入するための行列待ち、隠れた名店や名品探究のお宝探し、ネット・オークション利用の一般化などのプロセス体験にも魅力をもとめて行動をとる消費感覚。あるいは、高級嗜好品と一般用品と値ごろ感の境界線の融解。――見わたせばこうした状況が急速にあちらこちらに広がっている。

 

これらのマーケット現象についてはこれまでにも、記号消費、物語消費、快楽消費、感動消費などさまざまな切り口で考察されてきているが、こうした事態が「消費価値経済」から「経験価値経済」へ時代がシフトしているあらわれと考えられはしないだろうか。

 

また、経験価値経済化における消費傾向について次のような説明もある。(ハーバード・ビジネス19991月号「体験価値の創造をビジネスにする法」)

かいつまむと、著者は経済価値(人は何に対してお金を払うのか)の変遷を4つの段階に分け、それをバースデー・ケーキの例を引きながら説明する。

  

【第1段階:農業(1次産品の採取)】・・・19世紀以前

 ⇒母親たちは小麦粉などの農産物を使い、ケーキを材料から手作りしていた。

【第2段階:工業(財の製造)】・・・19世紀末から1960年代

 ⇒小麦粉やバターの代わりにケーキ・ミックスを買ってくるようになった。

【第3段階:サービス(サービスの提供)】・・・1970から1980年代

 ⇒ケーキ屋に、ネーム入りのケーキを頼むようになった。 

【第4段階:体験(体験の演出)】・・・1990年代から

 ⇒イベント企画会社に、思い出に残る誕生会の運営を委託するようになった。

 

つまり近代以前では、農産物などの1次産品を取引対象としていたのが、その後、工業優位社会になると人びとは加工品を購入するようになった。さらに時代が進むと、モノやハードではなく、サービスやソフトが経済の対象となった。そして、今や「経験価値経済」の時代に入ったという。

 

こうした経験経済化した市場に影響力をもたらすものは何かといえば、

・どのような経験が消費欲求を高めるのか。

・その経験がユーザ側の生活にいかなる付加価値をもたらすのか。

――の二つが大きな鍵であり、それにより商品やサービス価格の相場観が決る。だから経験価値経済の立場では、これらの点を考慮して売り方を考えないとコモディティ化が進むという。

  

コモディティ化(commoditizing)とは、ある商品カテゴリで競争商品間の差別化特性(機能、品質、ブランド力など)が失われ、供給価格や供給量を判断基準に売買が行われるようになるという意味のマーケティング用語で、大雑把にいえば陳腐化のことである。多くの場合、商品価格の下落を引き起こすため、特に高価な商品が低価格化・普及品化することを指して"コモディティ化する"という場合が多い。

  

そのため供給側は、コモディティ化して価格が下落することを抑制するために、消費市場の欲望水準を高い水準に保ち常に刺激し続ける努力が必要となる。

その代表的な対応策が企業のブランド戦略である。ブランドは、ある商品・サービスを別の商品・サービスから区別するためのネーミングやマーク、模様といったシンボルだけでなく、消費者がその商品・サービスを見た際に想起する周辺イメージも総体的に含んでいる。

 

だから、ブランド消費の引力とは、商品・サービス自体だけでなく、それを供給する企業の価値観・世界観への共感や同意といった支持する大きさの力とみることができる。

 

多くの場合ブランド戦略は、それらをより広く豊かに伝えるための"物語(体系化されたメッセージやイメージ群)"を必要とし、それによってある価値観や世界観が、外部にうまく伝えられ響かせることができたかどうかで勝敗が決まる。

 

そのため、自社の倫理性や品格も含む市場品質水準を維持向上しつつ、それらを取り巻く"物語"とともに商品を供給し続けるための企業戦略を展開する。

 

この"物語"の出来いかんで、ブランドへの強烈な印象と広範な好意や支持の獲得に影響があるのだから、強く心を動かす感動的な物語要素と演出がもとめられることも多くなる。

 

成熟した消費社会では、このような経験価値経済を意識した事業展開が顕著な傾向にある。感情を高め興奮させる「感動」で消費が促されるならば、彼らに素晴らしい経験をさせるノウハウやテクニックが、ビジネス現場でよりもとめられるのは自然の流れであろう。

 

また、このような状況に反応して、現在、マーケティングや経営の世界では、従来のビジネス心理の研究に加え、脳神経科学や認知科学を応用して、さらに直截的に感情や情動、本能的な欲求といった深層レベルでの作用がどのように消費行動に影響を与えるかの解明に注目が集まっている。

 

感動と経済の関係メカニズムにかかわるこれらについては今後の展開の中で順を追ってふれていくことにする。

 

次回も、感動と消費文化のかかわりを、別な角度からみていくことにする。

(・・・・to be continued

感動したがる人びと
 
もちろん、こうした「感動」流行りの状況を苦々しく感じたり冷ややかに見て、これらは本当の「感動」ではないとする向きもあろう。「感動」とは知性・感性・倫理など高度な精神の内発的な働きであり、強烈な感動が個人の人生を変えることもしばしばある、といった意見である。そうはいっても、先のアンケート調査のように、世の中は感動というキーワードへの関心とそれをもとめるニーズは高まっているようだ。

そして受け手が「これで泣ける」とか「これで感動できる」と予定調和的な効能をもとめ、その期待を裏切ることなく提供する映画や小説、ドラマなどが軒並み生産され、ヒットしているのも事実である。評論家の大塚英志は、この感動の商品化に対応した消費状況を「物語のサプリメント化」だという。たとえば、泣くということはカタルシス(精神浄化)であるから、これらは感情の機能性商品としてもとめられているモノだというのだ。

いっぽう、こうした感動ブーム(?)に対して、主に精神医学や臨床心理などの分野から"境界不鮮明化" による一種の社会病理現象だとみる意見もある。おおよそは次のような見解である。目まぐるしく変化する現代社会では、大人と子ども、男と女、世代間、社会的役割、仕事と遊び、あるいは季節や昼夜など、ありとあらゆる面で差異性の境界が不鮮明になり、正常と異常の区別が曖昧になってきている。

心の病気にいたらない健康な人の間にも、そうした境界意識の希薄化が広がり、日常的に感情の起伏を直接表出しやすい人たちが急増している、というのだ。突如、感情を暴発させ「キレる」人や、クレイマーやモンスター・ペアレンツなどの増加、さらには詰らぬ小競り合いに端を発した衝動的な殺人事件の頻発などが、報道記事で多く取り上げられることが、ここ十数年顕著なのも確かである。
 
こうした現状認識の限りでは、泣く、笑う、怒るといった感情は、以前よりもはばかることなく表出しやすい傾向が強まっているようであり、特に若い世代になればなるほど、自分の感情をうまく扱うことができなくなってきているという指摘もある。つまり、感動しやすい高感度で繊細な感性が成熟してきたのではなく、理性や悟性により感情をコントロールする能力が著しく低下しているというのである。

また、その背景として、急速に普及したインターネットや携帯電話、ビデオゲームなどICT&マルチメディア技術への適応不足や過剰適応が、感性面での現実と仮想との境界融解を加速させ、生活リアリティや実存感が欠如した気分を蔓延させている、とする見方もある。確かに携帯電話でいつでもどこでも話せ、インターネットにつなげば調べものが容易にできる便利な時代になった反面、現代人はじかに他者と会話し接触することから距離をおくようになっている。

インターメディアは、コミュニケーションの密着性が表層的には感じられても、道具を間にはさんだ違和感や不自然さが常につきまとう現代社会特有のコミュニケーション環境を形成する。インターメディア利用の広がりとともに「こころの知能指数」と呼ばれるEQ(Emotionally Intelligence Quotient)なる言葉や、「空気」が読めるの読めないの、といったような感情の距離感を測りあうことが流行ったが、これなどもそんな時代のムードを反映しているのだろうか。
 
こうしたバックグランドがあるとするなら、今後において、人びとは「感動」を提供する商品や、「感動」が享受できるリアル・コミュニケーションの場や機会をより求めていくことになるのかも知れない。そしてそこに資源としての感動価値というものが感じられそうだ。
 
新たなテクノ・スケープの台頭は、人びとの心身を変容させる。だとしたら感動の感受の仕方や、感動に対する価値意識も、インターメディア時代の前後では変わってきているのかも知れない。ならば、これから「感動価値の創造」というテーマを考えていくにあたっては、こうした現在進行形の変容状況や、その延長にある未来形のイメージも射程に収めておく必要があるのだろう。
 
次回では、感動と消費文化のかかわりに目を向けてみようと思う。(・・・・to be continued

巷にあふれる「感動」
 
人は感動する。誰でも感動体験を持っている。わたしたちは日々の生活の中で、喜怒哀楽いろいろの感動的出来事を経験している。それには極私的なものもあれば、家族や恋人、友人、仲間など他者と交感、共感によるものもあるだろうし、その質にしても、心身がムチ震えるほどの感銘もあれば、「超ーカンドウ!or ・・・」といった軽い印象に過ぎないものもあるだろう。

とにかく、社会のさまざまなところで感動が生産され、人を動かしている。そして人びとの感動に対する欲求には尽きることがない。だから、豊かさの方向性が「便利さ」や「快適さ」から「楽しさ」へと重心を移しつつあるなかで、巷では感動消費市場が活況である。泣ける本がベストセラーの上位を占め、泣ける映画は満員御礼、テレビのスポーツ番組では「勇気と感動をありがとう!」の言葉をアナウンサーが泣きじゃくりながら連呼する。また、大笑いできる漫才・コントがマスメディアを席巻し、お笑いシアターはいずこも大盛況のようである。

このように、スポーツやイベントをはじめ、映画、舞台、音楽、出版、ゲームや旅行といった、感動を生み出す商品やサービスは、今日の日本経済でもっともホットな市場である。民間大手のシンクタンク三菱総研とgooリサーチが2003年にインターネットを使って実施した感動に関するアンケート調査の結果によると、"感動するために意識的に行っている行動(レポートでは「感動探し」と呼んでいる)"のビジネス市場規模は5兆円と試算している。感動探しは中高年ほど割合が高まり、60代では57.6%が行っているという。そしてそのために使う平均金額は、ひと月当たり平均1万1,400円で、これをベースに市場規模を算出した結果、感動ビジネスの市場規模は年間5兆円にのぼるというのである。ちなみに、感動探しの世代別内容は、10代・20代は「映画を見る」、30代・40代は「良好な家族関係の維持」、50代・60代は「旅行に行く」「自然に触れる」が主なものであった。

また、感動体験の頻度を年代別に見ると、「1ヶ月に1回以上」の割合が「10代」50.9%、「20代」48.6%と年代が若いほど高いのに対し、「50代」30.7%、「60代」33.9%と、年代が高くなるにつれて頻度が減る傾向にあるという。そのため、高年齢になるほど感動探しに積極的になるものらしい。
 
とはいえ、感動への欲求がどんなに旺盛でも、多くの人がそれを満喫するために費やせる時間には限度がある。だから、この市場に注目した供給側としても限られた時間で得られる感動を最大化するために、いろいろと工夫する。
このところ、企業が行うマーケティングでは、この「感動」をはじめ「共感」、「物語性」、「五感への訴求」といった感性領域のキーワードが急増している。また、モノであれサービスであれ、消費者側もそういった要素を含む商品をもとめていることは確かで、事実そうした視点による商品やサービスの開発は、リピータや利益の向上に大きく貢献しているようだ。
 
とはいうものの、このような主観的で曖昧性の高い価値意識は、これまで個々人の感覚でしかとらえることができないとされてきたものである。だから、読み違えて商品を開発したり供給する可能性だって大いにある。
であるならば、そうした「感動」や「物語」などといった不安定なものを、今日のマーケティングは経済活動や企業行動というリアルかつ実践的な行為に向けて、それをどのように方法化しようとしているのか。
ただし、そのことに立ち入る前に、しばし、こうした状況のバックグランドをみていくことにする。

連載にあたり"感動研究事始"と題したのは、なにも「蘭学事始」にならい高い志を持って考究に臨む、という決意表明からではない。「感動」を研究する必要にせまられたので、とりあえず、「事を始めて」みようといったにすぎない。

したがって、この連載は研究報告や論考ではなく、それ以前の手習い作業の状況報告であり、その中で読んだり見聞きして知った事柄についての心覚えやメモ控えのようなものである。それゆえ、知識情報不足や間違い、いや、誤謬以前に常識足らずのことだって必ずある。したがって、それらについては指摘があったり、気付いたら、そのつど、言い訳、加筆、修正していくことにする。いい加減なようだが、要するに、これが本連載の基本スタンスである。

そのようなわけで、現在のところ「感動研究」についての知識はほぼ白紙状態である。なんとも心もとないようだが、白紙でもそれに多少なりとも色がついていけば、それはそれで何かしらの意味が出てくるものである。そんな気楽な構えで、とりあえず「事」を始めてみようと思う。

2009年4月1日、感動創造研究所サイトを公開しました。