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感動を誘うもの(1)

 

感動の時空間

 

感動の意義は、生に対して肯定的な情動が経験される頻度や強度によって表され、そのベクトル方向は幸福感の充足にある。いいかえれば、生活全般の満足感、あるいは、個人がみずからの「生」全体をどのくらい肯定的で好ましいものであるかが納得できるかにある。

 

それを脳科学は"知性・情緒・意識という人間の精神活動を肯定的に結ぶもの"とし"種の生存のための活路探索"と解釈するが、進化生物学や生理学では所与の環境に最良に適応する生物反応(あるいはそのための能力)という角度からとらえようとする。

 

この方面からの研究では、たとえば、九州大学の綿貫茂喜教授(生理人類学)による「生理反応による感性科学研究」というテーマが基礎研究として知られている。

 

同大芸術工学研究院が所有する、気圧、酸素濃度、気温、湿度、光の照度と色温度、香り、擬似的無重量などの環境因子を自在に変化操作できる環境適応研究実験室を使って、さまざまな感覚刺激を被験者に与えて、その脳波や神経関連の電位、自律神経系、内分泌系や免疫系などといった生理反応の様子を検討していくことで、環境適応の視点から人の感動・感性事象の生理的特性を研究している。

 

また、金沢工業大学には感動デザイン工学研究所(所長神宮英夫教授)があり、その名が示す通り、人が感動するメカニズムを科学的に検証し、人に感動をもたらす製品(感動プロダクト)の研究開発することを目的に、高臨場体験シアターや脳活動を計測する光トポグラフィーをはじめとした最新研究実験設備で、感動を工学的にとらえて応用するための研究開発を行なっている。こうした状況については、また、別の機会に紹介したい。

 

ところで、具体的に人はどのような状況や環境下でどのような印象を感受して感動をするのか。あるいはどのような状況でいかなる感動が誘発されるのだろうか。まずはこのあたりをみていくことにする。

 

以前に「感動」を言葉のニュアンスの広がりから整理したNHK放送技術研究所による感動分類表を紹介したが、さしあたってそれにならってみる(第六回参照)。

 

この感動分類表では、まず、感動を受容(受け止めるもの)と表出(感情表出したもの)とし、さらに表出を感情の正・負(及び中立)に分けた3つに大別する。感情の正・負とは、脳科学でいう"種の生存のための活路探索"、すなわち自己のおかれてある状況がプラスであるかマイナスであるかということである。また、そのいずれともつかない瞬間的な情動事象での印象を「中立」としておき、正・負の感動と緩やかに分離してある。

 

次に受容→「受容」、正の感情表出→「魅了」「興奮」「歓喜」、負(及び中立)の感情表出→「覚醒」「悲痛」と感動のニュアンスを6つのカテゴリーに区分して位置づけ、さらにその下位に12に分けた印象群をクラスとしてぶら下げている。

 

とりあえず、感動分類の基本的な6カテゴリーそれぞれの感動について、それと対応する感動体験のリアルな時空間としてどのようなものが当てはまるかを思いつくままに列挙し、以下に叩き台として示す。

 

受容感動の時空間

主体が状況や環境などに受け入れられたことを自覚してわき起こる感動で、「心にしみる」「心温まる」「胸がいっぱいになる」のクラスからなる。

 

思い当たるのは、状況や他者と打ち解けた場合である。または旅情、旅のロマンによる感動体験。さらに時間の旅ということで、郷愁や追憶にふける情感体験も含まれるだろう。

 

魅了感動の時空間

主体が憧れたり、畏敬する対象とかかわることから生じる感動で、「心を奪われる」「胸をうつ」のクラスからなる。

 

コンサート体験、芸術文化の鑑賞体験、ブライダル体験、上流・高級体験などが該当し、稀少な事物や人物との交流体験なども含んでいいだろう。

 

興奮感動と歓喜感動の時空間

前者は「興奮する」、後者は「心がおどる」「歓喜する」のクラスからなり、ともに主体が望む状況への参加、参観、遭遇などを通した、身心の高揚や熱中による感動である。強いて分けるならば、「興奮感動」は生理的な高揚性に比重を置き、「歓喜感動」は心理的高揚性に比重を置いたものとなろうか。

 

祭り、フェスティバル体験、コンサート体験、プロバガンダ・マスゲーム、スポーツ観戦、ギャンブル体験、絶叫マシーン体験、遊園地、テーマパーク体験などが該当し、エクスタシー刺激や非日常性が伴う。

 

覚醒感動の時空間

主体が驚愕、予想外の事態と遭遇した際に生ずる深く心に刻まれる感動で、「目が覚める」「心をわしづかみにする」のクラスからなる。

 

その多くが、演出構成上の工夫やハプニングなどによる印象深い体験である。博物館のハンズオン型展示、お化け屋敷や舞台技術の効果演出ギミックなど、あるいはドラマツルギー(作劇術)的テクニックやシステムなどが該当する。また、ホスピタリティのような人的ファクターからの感動体験も含まれよう。

 

悲痛感動の時空間

文字通り、主体が深い悲しみにおちいった場合や、それを思い出したり償う気持ちなどから生じる、いわば負の感動である。

 

状況や環境としては、葬式や祈念式典などのセレモニー、葬祭施設、宗教施設、霊園や霊場の空間。および、戦跡や事故現場跡などの負の記憶にまつわる場所が含まれる。また、悲しみの緊張から解放され余韻にひたるなど、癒しやカタルシス(精神浄化)として正の感動に転ずる作用もとどめておく必要があるだろう。

 

感動を誘う要素

 

次にこうしたことへ向けて人の感情・情動を激しく突き動かすもの、言い換えれば「血を騒がせるもの」にはなにがあるのか。これも正・負の感情の両方についてアトランダムにひろってみることにする。

 

【正の感動を呼び起こすもの】

◆美しいもの、◆楽しいもの、◆新鮮なもの・生々しいもの、◆存在や意味が強いもの、◆輝くもの、◆豪華なもの、◆活発に動くもの、◆魅力的なもの、◆劇的なもの、◆壮観なもの、◆興奮するもの、◆神秘的なもの、◆不可解なもの、◆暗示的なもの、◆謎なもの、◆驚異なもの、◆大胆なもの、◆最高・稀少なもの、◆崇高・超越的なもの、◆変化するもの、◆色彩的なもの、◆眩暈するもの、◆エキゾチックなもの  など。

 

【負の感動を呼び起こすもの】

◆抑圧的なもの、◆不愉快なもの、◆不満足なもの、◆恐怖や苦痛を与えるもの、◆奇怪なもの、醜いもの、◆悲しいもの、◆絶望・退廃的なもの、◆調子はずれなもの、◆場違いなもの、◆軽蔑するもの、◆単調なもの、◆親密感のわかないもの、◆一貫せず不調和なもの、◆不安定なもの、◆危険なもの、◆得体が知れないもの、◆不明瞭なもの  など。

 

これらのエレメントを状況場面化、物語化へ展開し、感情・情動を強く働かせやすいと思われる演出素材についても、あわせて考えてみると、正の感情・情動へ誘導しやすい演出テーマ要素としては、

◆異国・異郷テーマ、◆未知に対するテーマ、◆隠れたもの・隠されたものに対するテーマ、◆はるかなるものに対するテーマ、◆理想とするものに対するテーマ、◆神秘的なもの・言葉で語れないものに対するテーマ、◆夢や空想と現実の混交に対するテーマ 

 

――などがあり、これらを集約すれば、「ロマン」という一語に、また、共通する基本要素として「希望」、「愛」、「未知」のカテゴリーでくくれそうだ。

 

とすれば負の感情・情動にとっては、単純に反対のコンセプトがあてはまる。たとえば艱難辛苦の現実・現世としての「リアル」。サブカテゴリーとしては「不安・嫌悪(グロテスク)」、「白け(マンネリ)」、「苦痛」あたりだろうか。

 

ここでは感動を誘う要素を正・負の二分法で列挙したが、これはあくまで要素ピックアップのための便宜的なもので、感情が基本感情だけでなく混合感情として表出されるように、実際の感動もこれらが二項対立に存立するのではなく複雑な複合体として立ち現われるのである。 

 

そのため、感動をビジネスなどで実用化する場合には、こうした誘発要素や印象効果を高めるための何らかの作為技術が必要になってくるのである。

 

* * *

 

次回はこうした諸要素の構成体であり、人の感情を強烈に動揺する空間環境の代表的なものとして、「祭り」を題材に感動時空間の基本的な仕組みをみていこうと思う。

(・・・・to be continued

感動の源泉 special(2)

 感動のポジション

 

これまでの産業価値観はもっぱら性能、信頼性、価格にもとづく、どちらかといえばハードウェアが先行しがちなモノづくりだったが、グローバル化や成熟社会化などの構造変化の中で、引き続き活力ある発展をしていくためには、それだけではない新しい着眼からの価値創造が求められている。マーケットにおける「経験経済」もそのひとつだろうが、21世紀のプロダクツにおける重要なキーワードのひとつとして「感性」が脚光を浴びている。この新しい価値創造へ向けて 感性工学をはじめ、文理融合の超域体制で「感性」を資源化するための研究開発が活発で、経済産業省がその振興策として「感性価値創造イニシアチブ」を打ち出し旗振りするなど、今のところビジネストレンドは感性価値の時代のうねりの真っただ中にある。

 

感動価値創造や感動市場といった「感動ビジネス」に対する関心も、こうした時代トレンドに棹さしたものであるのはもちろん言うまでもない。

 

というわけで、今回は感動をはじめ、感覚、感情・情動、気分などといった感性領域を構成する用語(概念)類をいったん整理し、その上で「感動」という感性が感性領域の概念空間でどのようなポジションにあるかを改めてみておくことにする。

 

「感性工学への招待」(森北出版刊)の中で、信州大学の坂本弘教授(感性工学)は"感性の哲学"の項目を受け持ち、感性領域を構成する基本的な諸概念を次の方法で整理している。

    1. 感性領域の言葉は多義的に解釈されやすいものが多いので、感性=感受性と仮定する。
    2. 外界刺激など最初の入力に始まり、感覚から知性にいたる感受情報の流れの道筋を想定し、それを進めていく。
    3. .この道筋の中で感受性が、どこでどのような意味をもつかを記していく。

まずはこの方法にしたがって作られた感性領域のマッピングフロー図を以下に示してから、それぞれの感性(=感受性)についてみていくことにする。

 

 

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 【感性領域のマッピングフロー(坂本弘教授の作成図を一部改変)

一見して分かるように、外界からの感性情報入力に対する反応・表現という出力の質的高まり(深まり)の度合いを序列においた概念群の整理の仕方である。つまり単純な感性から複雑な感性への遷移をみる、感性をハマチからブリ(最終は"トドの詰まり"の"トド")にいたる出世魚の成長見取り図のようにとらえていくやり方である。

 

ただし上図について、元図で「感性」の言葉をおいている場所に「感動」を位置づける改変をした。感性工学の立場では「感性」をsensitivity(感受性)ではなく、Kanseiとそのまま表記することで新たに定義を付与すべき特別な感受性の概念としているが、「感動」もそうしたコアをなす感受性の一つの様相であると判断し、感性領域の概念空間上では同じようなポジションにあるものとした。

 

このマッピングフローにしたがって、各個についてふれていく。

 

【「感覚」の感受性】

「感覚」は、外界からの刺激を視・聴・嗅・味・触の五感覚で受容した際の、浅い印象である。ともなう判断基準としては、暑い・寒い、硬い・柔らかい、明るい・暗い、といった外界刺激の生理基準による生体反応と、2カッコいい・カッコ悪いといった、社会生活価値判断にもとづく生活基準による「第一印象(Fast impression)」のような印象反応、の2つからなる。

 

【「感情」の感受性】

「感情」は、一般に喜怒哀楽とされるが、心理学では、喜び、驚き、恐れ、悲しみ、怒り、嫌悪、を基本6感情とし、多くの場合、これらが混合感情となって表出されるものとする。

 

また、冬の風景に寒々しさだけでなく物悲しさを感じたり、その曇天に一筋の光があらわれた瞬間に喜びを感じたり、といったように、感覚は感情により輻輳して色づけされた印象を備える。つまり、感情は五感で得た感覚情報を統合するだけでなく、観念的、文化的価値基準や個性の価値基準が加わることで、主体―客体間を認識して複雑な情報や、それを原理とした行動などを出力する。

 

【「気分」の感受性】

「気分」は、価値基準である「観念」とともに、感覚情報を統合し色分けする「感情」に微弱で持続的に振幅変調をもたらすものである。感情を自覚する方向性を示すと同時に、感情の興奮度合いも示す。

 

【「感動」の感受性】

「感動」は、語義では"深く物に感じて心を動かすこと"だがその衝撃強度から、感性としては"メタな感情の感受性"とみる。いいかえれば、ある感情を意識(自覚)し内省へ向ける感受性である。 一見、同義反復のようだが、体験した感動事象でわき起こった感情に複合する観念を介することをきっかけに自問や自省が深まる。その深度の度合いで主体にとってよい感動となる。感動は想像、知性の高次化を方向づけ、よってときには発見や発明、創造をもたらす。

前回に「感動」という言葉を"人間の感性の内、世界と自己に覚醒と活性をもたらすもの"などと妙に構えた言い方でとらえたが、こうしてみるとあまり過言でもなさそうである。

 

また、演劇俳優からビジネスの世界へ転向し感動プロデューサを名乗る平野秀典氏は、演劇の「感動」創造をビジネスに活かした「ドラマティックマーケティング」の実践を通して、これまでの顧客満足ではなく、顧客に感動を提供するビジネスにパラダイム変換することが収益力を著しくアップさせると主張し「感動力」が必要だと説く。その上で 著書感動力(ゴマブックス)において、感情の段階を経験則的に、

怒り<不満<満足<感動<感激<感謝

の6段階であるとしている。

 

確かに"顧客満足(Customer Satisfaction)から顧客感動(Customer Delight)へ"をスローガンとする企業やビジネス本の多くは、これに類した価値基準にもとづいているようだ。感動を自己啓発や人材教育、営業戦略への実践応用に考えていく際には、こうした尺度は参考になるのかも知れない。

* * *

次回は話を戻して、具体的な事物と感動をめぐる話題に移ることとにする。

(・・・・to be continued

 

感動の源泉(3)

感動の役割

 

脳科学では感動をどのように解釈しているのか。

 

脳科学者アントニオ・R・ダマシオ著「感じる脳」(ダイヤモンド社刊)によれば、知性や感性を含めた判断力こそが人間であることの証明であり、それを磨くために「感動」が重要な役割を果たしているという。

 

そして、知性・情緒・意識という人間の精神活動を肯定的に結ぶものとして「感動」があるとする。

 

人間の大脳の前頭葉は思考の統合作用を受け持ち、そこに蓄積された情報を整理し活用する場である。そして前頭葉のこうした作業の判断基準が「意欲」や「価値観」である。つまり、どのような価値観を持つか、どのような欲望を持つか、あるいは何を目的とするかによって脳内では体験記憶の整理のされ方が異なる。

 

現代の脳科学では、やる気や意欲を含む感情のシステム「生きる上で避けることができない不確実性への適応戦略」と解釈する。

 

たとえば、生きる意欲というものは、先が見えていない何が起こるか分からないといった不確実性へのチャレンジであり、脳を活性化させる重要な要素である。

 

確かに人生では、十分な与件がないまま選択を迫られる局面が無数にある。そうした時に、人間は感情の動きで結論を選択する場合がほとんどである。

 

したがって、ある行為判断の選択決定は、人間脳とされる大脳皮質の論理推論によって判断しているようだが、実際には、動物脳の大脳辺縁系での感情の働きにより判断が下されていることは前にもいった。つまり、人間は知能と感情を複雑にからみあわせながら、不確実状況に対処する判断をしている

 

また、人間と他の動物をくらべた場合では感情の種類の数が決定的に違う。前回のプリティックの感情分類を思い返せば分かるように、人間の感情の種類は圧倒的に多い。

 

こうした上でダマシオは「感動は、人間だけが持つ豊富な感情レパートリーを再び集約した結果に生まれた、最も人間らしい心の動きだ」という。感動が複雑な混合感情だからこそ、本当に感動体験を味わった時に、それが「とても言葉では言い尽くせない」ものとなるのである。

 

人間の大脳は自分の体験していることに対し、感情をつかさどる情動系システムとそれまでの経験により培った価値観と照らし合わせる作業をする。そしてその新しい体験が自分を変える大きなきっかけになると察知した時に、感動が起こる。だから感動で涙を流すのも、今体験していることが脳や人生の変革機会になると脳が察知した反応のひとつといえる。

 

このことから、ダマシオは感動の価値を「脳が記憶や感情のシステムを活性化させて、今まさに経験していることの意味を逃さずにつかんでおく働きである」とし、「脳が全力を尽くして、今経験していることを記録しておこうとしている。生きる指針を痕跡として残そうとしている。そのプロセスに感動がある」という。

 

また、感動は個々人ごとの主観内で意味を持つ体験だが、社会の価値観や環境といった文化的側面により強化されるという。

 

たとえば何かに感動した時に、周囲の人たちがそれは素晴らしいことだと後押ししてくれるか、あるいはくだらないと拒否されるか、その反応次第で脳の働きは全く変わってくる。それは人間が社会的動物で、周囲に受け入れられたいという欲求があるからである。

 

そして同意と共感を獲得するために、感動を態度や言葉、創作などで表現し、かつ、それにより感動の回路はどんどん強化されていくのである。

 

 

共感の回路

 

感情の共有、共感回路ということについて、もう少しふれておけば、たとえば他者が痛みを感じるのを見て、自分も痛みを感じるような気がする。そういう共感する感覚は、人間だけではなく他の動物の脳にも組み込まれている。

 

脳の情報処理は他者が体験している感覚や思考を共有することが苦手だが、感情については一瞬の間に伝わり共有されやすい性質をもっている。そして、それは生物進化における種の存続戦略に由来するものである。

 

共感のメカニズムには1996年に発見された、ミラー・ニューロン(mirror neuron)という神経細胞が深くかかわっている。ミラー・ニューロンとは文字通り、自分の行動と他人の行動を、あたかも鏡に写したかのように反映して活動する神経細胞である。

 

ある一つの同じ神経細胞が、自分が行動する時と、同じ行動を他人がするのを見た時に、同じ活動をするのがミラー・ニューロンである。

 

つまり、人は脳の中に鏡を持ち、そこに他人の表情やしぐさを写し出す。そしてそこに写し出されたものと自分の体験を即座に照らし合わす作業をするのである。

 

しかし、ミラー・ニューロンさえあれば相手の気持ちが分かるというものではない。ミラー・ニューロンはサルの脳から発見されたものだが、サルには人間同士のように複雑な気持ちの共感はない。抽象的・論理的な思考能力が人間だけに備わっているからである。 人間の抽象的・論理的な思考能力は言語能力に由来する。脳の共感回路自体にはミラー・ニューロンが深く関わっているが、この言語による抽象論理思考がない限り相手の微妙な心のニュアンスを推し量ることはできないのである。

 

そうはいっても、実際での人間同士のコミュニケーション現場では、相手の表情やしぐさなどの言葉以外の反応がかもし出す気配によっても、大きく支配されがちである。これら非言語コミュニケーション(non-verbal communication)については、別の機会で深くみていくつもりだ。

 

ついでながら、ここで少し話を脱線し、感情の共有や共感に関連するものとして興味が惹かれるユニークな研究を紹介する。

 

それは岡山県立大学の渡辺富夫教授(情報システム工学)の「心が通うコミュニケーションシステムE-COSMICEmbodied Communication System for Mind Connection)」というテーマの研究である。

 

それによれば、対話、会議、講演などさまざまなインタラクションやプレゼンテーションの場があるが、その際に人と人の間に、うなずきのような肯定や同意を表わす身振りをするロボットやCGなどを介在させると、円滑なコミュニケーションを促進する効果があるという。

 

インタラクションの場にそうしたメトロノームのような介在者をおくとその身振りに引き込まれて、対話者相互の身体的なりズムが共有され、一体感が実感できるようになり、議論の活発化などコミュニケーションが円滑化して知的生産性も向上するというのである。だから「引き込み理論」と呼ばれることもある。

 

つまりはこういうことである。発話者は相手の反応を気にしながら対話を進めるが、相手が肯定的なそぶりを見せると気分が乗ってしゃべりやすくなるものだ。それで対話者相互の顔色を見ながらタイミングよく、うなずくなどの肯定的な身振りをするインターフェイスをおくことで会話を弾ませる雰囲気を演出する、というわけだ。いわば、コミュニケーションのムード・メーカとしてのシステムである。

 

この引き込み理論は、近頃では癒し系の情緒玩具に応用されはじめてきたが、感動コミュニケーションを構成するシステム技術の一つとして、注目しておいてもいいだろう。

 

 

感動を起こすもの

 

話を戻すと、「感動」を知性・情緒・意識という人間の精神活動を肯定的に結ぶものとした場合、それを引き起こし、かつ活性促進する具体的な物語化するためのコア・モチーフは何かというと、ダマシオは「意外性」と「なつかしさ」をあげている。

 

ここでいう「意外性」とは、それまでの見方が新しい見方へ転換することをいう。

 

つまり見方を変えて物事をとらえ解決する必要があり、かつその方向感までは漠然と感じる隔靴掻痒の状態があった時、突如としてそれから解放された瞬間、そこに感動体験が生じるという。パズルや問題が解けた時、いいアイディアを思いついた時、といった日常的なレベルから、大発見、大発明が発想できた瞬間での感動体験、ありていにいえば「目から鱗が落ちる」ことがこの「意外性」ということである。

 

脳科学者の茂木健一郎が流行らせた「アハ体験(Aha experience)は、この意外性の感動を応用した脳の強化学習法の一つである。アハ体験では0.1秒の瞬間に脳内約一千億もの神経細胞が一斉に活性化するという。

 

もう一方の「なつかしさ」とは、単にノスタルジー自体のことを指しているのではなく、その情感も含め、ある物事を自らの暮らしや人生に感情的に引き寄せたり、照らし合わせておこる感動のことである。特に現状との引き寄せや照合に際して心が激しく騒ぐが、その意味が判明せずモヤモヤし、突如それが解消した状態での感動、いわゆる「腑に落ちた」感動である。

 

さらに引き寄せ照合したところ、たとえば生命進化の連なりや宇宙連環への一体感、あるいは心理学者ユングのいう集合的無意識での「元型体験」と自己体験との照応、といった「大きな物語」との連帯を感じた時は、いっそう深い感動となる。

 

これら「意外性」と「なつかしさ」に共通しているのは、生きるための見方や準拠枠の再編や転換、つまり、自己におけるパラダイム転換の創出活動であるということだ。脳科学ではそれを「種の生存のための活路探索」と解釈する。

* * *

このことから、われわれは「感動」という言葉を一般用法的にではなく、たとえば"人間の感性の内、世界と自己に覚醒と活性をもたらすもの"といった、独自の意味合いを持たせて考えていく必要があるのかも知れない。

 

また、こうした意味合いに親和性のあるキーワードとして、近頃見聞きするようになった「センスウェア(senseware)」という言葉も思いあたる。直訳すれば「感覚の道具・製品」で、ハードウェアやソフトウェアという発想からこぼれやすいものをとらえていこうという、第三のデザイン概念である。

 

日本総研の井上岳一はこのセンスウェアを「人の感覚を刺激することを通じて、新たな世界の見方や世界との関わり方を発見させる道具」と総じて言い、「センスウェアが問うのは、実用性や機能性よりも、人の感覚をどう覚醒させるかにある」としている。

 

これらの見方を流用して、今後考えていく感動価値とそのコンテンツというものについては、「人の感覚を刺激することを通じて、新たな世界の見方や世界との関わり方を()発見させるツール(モノ・コト)」という広がりを持たせた意味合いでひとまずとらえてみるものとして、以降に続く話題を展開をしていこうと思う。

* * *

何とか連載も十回を越えたので、次回からは方向性を変えて具体的な事物と感動をめぐる話題に移ろうと思ったが、感性領域での感動の位置づけがどうなっているのか、というリクエストがあったので、その前に特別回として、このテーマについて少しふれておくことにする。

(・・・・to be continued

感動の源泉(2)

感情のしくみ

 

既述したように、心理学では激しい感情の動きを「情動(emotion)」と呼ぶ。感情もemotionだが、脳科学では意識に上るものは「感情」と呼んでfeelingをあて、意識に上らない脳内過程を「情動(emotion)」として区別する。また、その上で脳科学では「感情(feeling)」を、"不確実で与件情報の少ない状況で個々の人間に生じるメカニズム"と解釈する。

 

そうした感情の基本は、驚き(surprise)、喜び(happiness)、怒り(anger)、恐怖(fear)、悲しみ(sadness)、嫌悪(disgust)であり、心理学ではこれを基本6感情と呼ぶ。

 

これら六つの基本感情が単独で表出されることはなく、複数の感情が混ざりあった混合感情として表出される。感情研究者のプルティックは、感情を下表のように32種類に分類している。

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【図1 Robert Plutchikによる感情分類】

これら多様な感情はどのような過程を経て生じ、感動体験やある行為を引き起こすことにつながる一連の心理状態にどう作用しているのか。情動がどのような身体生理的反応によって引き起こされるのか。つまり、感情発現の仕組みはどうなっているか。

 

心理事象と生理事象をつなげて感情・情動メカニズムを具体的に説明していくのはなかなか困難であるとされ、感情科学の研究はこれまで立ち遅れていた。

 

このメカニズム説明の分かりやすいモデルとして"感情"機能を搭載したロボットの開発研究が注目できる。それは早稲田大学工学部機械工学科の高西淳夫教授の研究室にある、情動表出ヒューマノイドロボット「WE-4RII」である。

 

前にふれたように、人間の脳は3層構造である。それにならい「WE-4RII」の心理モデルをつくるにあたり情報処理機能の面から、知能、感情、反射の3層構造からなるシステムとしてとらえた。

 

つまり、こうである。

  • 脳幹(爬虫類の脳)   →反射
  • 大脳辺縁系(動物の脳)→感情
  • 大脳新皮質(人間の脳)→知能

 

そして、外部からの刺激に反応する情動を作用時間によって三段階に構造化し、情動作用時間の長い側から、学習・気分・ダイナミックレスポンスとして設定し、刺激に対して反応するロボットに心理状態の時系列変化を起こさせる。

 

さらにマズローの「欲求要因ヒエラルキー説(自己実現論)」にもとづく食欲・安全欲求・探索欲求からなる欲求モデルを導入して、欲求から行動をするようになっている。(図2参照)

 

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【図2:「WE-4RII」の感情モデル(高西研究室資料による)】

 

また工学的にいえば、WE-4Rの精神活動は、感情を生成する情動方程式、ロボットに個性を与えるための感受個性マトリックス、表出個性マトリックスで構成する心理モデルからなる。

 

これにより、入力された刺激で自分の心理状態(=感情)を経時的に変化させ、それを身体駆動系モデルに伝え、表情や顔色、体の動きなどで表現する。

 

情動方程式は「快-不快」、「睡眠-覚醒」、「確信-不確信」の3つの尺度軸からなる微分方程式で、電脳内の心理空間での感情の動き(情動ベクトル)を決定する。

 

加えてロボットに気分(ムード)を表現させるため、快度、覚醒度の2軸から構成される気分ベクトルを導入し、外部からの刺激によって少しずつ変化する快度、自律神経系として体内時計を組み込んだ覚醒度を備えることで、人間と同様の生活サイクルを持たせている。(図3参照)

 

この心理モデルでは、たとえば、嬉しくなったときは3軸のうち「快、覚醒、確信」の方に情動ベクトルが向き、怒られたときは、その反対に「不快、睡眠、不確信」へと情動ベクトルが向くことになる。心理空間は、「喜び、驚き、怒り、恐怖、悲しみ、嫌悪」の基本6感情に、ニュートラル状態の「通常」を加えた7種類の感情で区分けされており、そのときの位置によって感情の種類が決定される。(図4参照)

 

 

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【図3 感情マッピングモデル(同)】

 

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【図4 WE-4Rの心理空間モデル(同)】

 

多くの感情の動きは「快-不快」「睡眠-覚醒」の2軸で動く。それだけでは表現できないケースをフォローするものとして「確信-不確信」の軸がある。

 

「確信-不確信」とは、たとえば対象が確認できる昼間に突然殴られたら"怒り"を感じるが、それが不明な闇の中で突然殴られたら"恐怖"を感じる場合のように、殴ってきた相手に関する情報に「確信」があれば"怒り"の感情として判断されることとなり、相手が分からなくて「不確信」であれば"恐怖"となる。図4が示すように「快-不快」「睡眠-覚醒」という2軸の平面では、"怒り"と"恐怖"がオーバーラップしている部分があったが、「確信-不確信」という軸を加えることで、2つの感情が区分けできる。

 

かくしてロボットに入力された外的情報(刺激)が情報処理され、それにより決定したベクトルの位置方向が混合感情を生起し、それに対応した身体反応が出力されるのである。

 

ここで少し脱線すると、このように"感情"を備えたロボットは感動するのか、あるいはロボットが感動するということはどういうことなのか、ということが気になる。この問題はきわめて哲学的な問題で、当然手に余る大難問だから別にさわる必要もないのだが、参考として、心理学者の西平直喜による「感動の現象学的心理学」(青年心理29号金子書房1981年)という論文が目に付いたので紹介だけしておく。

 

ちなみに現象学とは哲学の一分野で、きわめて雑にいうと、普段の態度で無反省に確信されている(と思い込んでいる)ものごとをいったんカッコに入れて取り出し分析して見直すモノの見方である。

 

この論文のなかで、現象学者マックス・ミューラーの説く、1感覚的感情(/不快)2生命感情(健康/病気)3心的自我感情(真善美/偽悪醜)4人格感情(/)からなる感情4階層モデルのうち、心的自我感情が生じ、かつ統一的な価値に向かう感情を「感動」としている。

 

この定義は、感動を"興奮などの情動状態" に還元せず、普遍的妥当性を備えた価値へ向かう感情のベクトルでとらえた現象学的立場によるものである。また、主体から"統一的な価値"に向かうベクトル(感動)の成分は、対象における主体の知識水準と興味水準に分けられるため、こうした現象学的観点からの定義では、下図のように感動は力動的な概念として示される。

 

 

 

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つまり、ロボットでもこうした基本条件を設定してプログラムさえしておけば、「感動」は現象としては成立する。しかしそれが誰(何)にとって、いかなる意味を持つのかは全くの別問題である。ここから先の論議はさらに込み入ってくるから話を戻す。

 

この鉄腕アトムやドラえもんの実現につながるかも知れない"感情"を持つロボットの開発研究の状況については、それだけでも実に興味深い話だが、さらに詳しく知りたければ高西研究室のホームページを見てもらうこととして後は割愛し、ここでは、心理事象と生理事象をつなぐ基本的な機構原理と、心理空間における感情・情動のマッピング・イメージを大雑把につかんでもらうための紹介のみにとどめる。

 

ところで、先に感情科学の研究は立ち遅れていたとしたが、その大きな要因の一つとして、感情の発現はどうなっているのか、という問題について心理学では百数十年の長きにわたる論争があったいきさつがある。

 

論点だけをかいつまんでいうと、涙が出るから悲しくなるのか(末梢起源説)、悲しいと判断するため涙が出るのか(中枢起源説)の2説対立の議論である。サイエンスの世界では、こうした極めて基本的な問題が片付いていていないことが往々にしてあるが、この論争もそうした一つだった。

 

この決着は今日、情動は身体反応とその原因を認知することの両方から生じる、とする情動の二要因説(認知起源説)を有力とすることで落ち着いている。

 

この説によると、ある刺激があり、心臓の鼓動や冷汗などの交感神経系の生理的変化が知覚されたとき、われわれはその理由を自分を取り巻く環境の中に探り、その反応の理由が何であるかを判断したり解釈したりして、それ以降に類似した状況経験を、驚きや悲しみ、喜び、驚き、快・不快などの情動に帰属(ラベル付け)させて認知するようになるという。

 

情動が自身の認知に由来することを、カナダの心理学者、ダットンとアロンは「恋の吊り橋理論」という粋な呼び名の実験で説明している。

 

男性の被験者を、恐怖で緊張する高い吊り橋の真ん中と、そうした緊張が少ない安全な橋のたもとで待たせる。それぞれの被験者にサクラである若い女性が近づいていって電話番号を教える。そうすると、結果として吊り橋の中央で教えられた男性のほうが教えられた電話番号に電話をかける確率が高いことが分かった。すなわち、極度な緊張状況下で会った女性のほうに魅力を感じて惚れた、というのである。

 

要するに、人は緊張感のドキドキと恋のドキドキを勘違いしてしまいがちで、恋愛に発展してしまう可能性が高まる、というのである。このことは厳密に立証されている訳ではないが概ね正しいとされている。

 

遊園地のお化け屋敷で恋の告白するのが効果的だとする俗説も、こうした類いであろう。ただし、吊り橋理論で恋愛が発展した場合の多くは、長続きしないというのが通例である。そもそも恋愛はいくつかの条件の重なりに導かれ成立するものだからである。

 

また、興奮を起こすホルモンであるアドレナリンを服用させて、例えば映画をみて興奮や感動といった生理反応が生じた人は、その原因が直前に服用したアドレナリンの副作用だと知らされたか知らされなかったかによって、映画に対する感情評価が著しく異なることも確かめられている。

 

つまり、ドキドキ感(心悸亢進)の原因がアドレナリンの副作用であれば情動と映像との関連づけは無意味だが、アドレナリンの副作用について知らされていなければ映画によって自分は感動したとラベル付けしやすくなるからである。

 

だから、逆にいえば、こうした認知由来説にしたがうならば何らかの事前告知をすることが、生じた生理反応の原因認知の過程に少なからず影響を与えるため、感動体験を誘発させる可能性がある訳だ。

 

また、感動を自覚した場合の「感動のラベル付け」ということに話を向ければ、感動体験は、それが認知されて起こる生理反応が、しばしば覚醒をもたらすほどの強烈な衝撃のものであるため、過去の体験記憶のリストに照合した場合でもベスト上位を占めるほど強いものである。また同時に、それは快感情で修飾されたものでもある。

 

したがって、感動体験に関連する事物は往々にして、将来においても概ね好感をもって迎えられ、好んで選ばれる度合いが高い。

 

だから、感動体験をうまく演出することにより、消費も含めた人間の諸行動を誘導することが可能になる。たとえば、オリンピックやワールドカップのようなスポーツの祭典とマーケティングがきわめて密接に関わるのもそのためである。観戦の緊張と興奮による情動は、感動としてラベリング(認知)されやすくなり、その感動シーンの主役を演じた選手の着たユニフォームや愛用具などが選好されやすくなる。また、緊張・興奮状態下では、短期記憶が劣り長期記憶が勝るという説もあるが、これなどもブランディングやマインド・シェア戦略を展開する際にはおさえておく必要があるだろう。

 

裏返していえば、うかつに「感動」すると衝動買いをしてしまう可能性が高まるのである。

 

* * *

 

これまでの心脳と感動をめぐる話題の中締め的まとめと再整理を兼ねて、次回は、脳科学では「感動」はどうとらえているのかについてみていこうと思う。

                                                                         (・・・・to be continued

感動の源泉 special

脳と経済

 

以前にふれたが、「神経経済学(Neuro Economics)」という脳と経済の関係を分析する研究や行動経済学(Behavioral Economics)と呼ばれる、新しい社会・経済の研究分野が関心を集めている。

 

これまでの伝統的な経済学(新古典派以降の経済学)が合理的経済人(Homo economicus)をモデルとして「人は利益に対し合理的判断しかしない」「市場は効率的にはたらく」とすることを前提に現象を解釈してきたのに対し、不確実な状況に直面した人間が最大の利潤を求める原則から外れて行動してしまう謎を、心理学や脳科学の見地から探る新しい経済学の潮流である。ここでは神経経済学の見方を簡単に紹介する。

 

世界の金融市場を大きく揺るがした米国サブプライム・ローン問題の直後に、"金融政策のマエストロ"グリーンスパン(前FRB議長)は、この原因について「バブル期を通じ人々を支配する幸福感はバブルが崩壊するまで払拭することはできない」とコメントした。

 

これを脳科学的にいいかえると、人間は不確実な状況下である選択をおこなう時に、ドーパミン神経系(報酬系回路)によってもたらされる幸福感(快感)の支配からのがれることはできない、となる。あるいは、バブル崩壊になだれ込んだのは、人びとがドーパミンの放出されやすい状況から逃れることが出来なかったことによる、となる。

 

脳科学の研究から、人間脳(大脳新皮質)の「前頭前野」でなされる理性的・合理的判断は、動物脳(大脳辺縁系)のドーパミン神経系などによる快・不快の情緒的判断にしばしば惑わされ、その結果として、将来得られる大きな利益より、目先の小さな利益を優先して行動する傾向があることが分かってきている。

 

前回ふれたことだが、この脳内"快楽回路"の作用は、当事者の生きざまにプラスにはたらけば「強化学習」として作用するが、マイナスに振れるとギャンブル依存症のような事態をもたらす。こうした見方をするのが神経経済学の立場である。

 

もちろん、この神経経済の考え方をめぐっては、現在、大きな議論が起こっている。

 

論点を先回って言えば、今日まで主流の経済学は、その根底に「選択の自由」と「制度設計」の理念をおいている。ところが神経経済の立場は、人間の無意識へダイレクトにアプローチしていくことになるため、自由意志を拭い去る可能性が強いことや、制度設計を必要とせず直接個人の心理的・生理的プロセスの中に問題解決の所在を求めるため、主流派経済学とは真っ向から対立する。

 

もう少し細かく言うとこうである。そもそも、これまで主流だった経済学は、個人の自由意思で選択された好ましいものを組み合わせて、最良の状態をデザインしていくことを妥当性評価の基準においてきた。 つまり、経済政策における経済配分のよしあしは、個人がある配分の仕方を別の配分の仕方より妥当性ありとして選択するかどうかで最終的に評価する。

 

いっぽうの神経経済学は、快楽を評価基準に考えるとともに、脳科学の知見に基づき、個人の選択と快楽は関連する脳の部位が異なるため"選択する好ましさ"を、区別して扱う必要があるとする。

 

要するに、主流派経済学の立場は個人の選択の自由を最大化していく制度設計を重視するが、神経経済学では快楽の達成の方を重視し、主流派のいう"個人の選択"は設計された制度などによる心理バイアスにとらわれるため、不正確だと主張するのである。

 

たとえば、人は医学的に悪いと知りながら喫煙をなかなか止められない。この喫煙行動のような健康上からの行動選択の誤りは、経済的な状況判断においても、多かれ少なかれ見られる。だから、個人の選択は基本的にアテにならず、いずれ神経科学の発展で快楽を脳から直接測定できるようになれば、"個人の選択"より"快楽の計測"による経済評価のほうが妥当性が高いというのだ。

 

このように神経経済学は主流派経済学とは異なるパラダイムを志向するため対立するのである。

 

ただ、経済学の歴史をふりかえれば、アダム・スミスが『国富論』(1776年)に先んじて、『道徳感情論』(1759年)を著していることからも明らかなように、合理性(理性)と非合理性(感情)との関係について研究してきた経緯があるため心理学と経済学はもともと一体のものであり、18世紀頃までは経済学者は心理学者も兼ねていたとみることができるといわれる。20世紀に入ってもケインズやウェブレンなどの経済学者が心理と経済との関係について繰り返し論じている。その後、経済学は合理的経済人(Homo economicus)を前提とした計量・数理科学的な側面が主流となっていったが、今日の認知科学の発展もあり、ふたたび経済学と心理学とを融合させて捉えてみることへの関心が高まった。

 

こうした傾向の大きなトリガーは、2002年度の米国心理学者ダニエル・カーネマンによる"認知心理学研究の知見を経済学に導入し、不確実性下における人間の判断と意思決定に関して新たな研究分野を切り開いた業績"を理由としたノーベル経済学賞の受賞である。カーネマンはこの研究から行動経済学を切り開いた。

 

余談だが、1997年に受賞した米国のロバート・マートンとマイロン・ショールズらによる"デリバティブ価格決定の新手法、ブラック-ショールズ方程式の開発と理論的証明した業績"は金融工学を確立させ、サブプライム・ローン問題をはじめとする世界金融危機のトリガーの一つとなった。高度な数理科学を駆使し合理性を徹底した金融工学、人間心理の非合理性を前提とした行動経済学、これらまったく正反対の立脚点にある理論がノーベル経済学賞の栄冠を得、かつそれらを生んだ国がやがて経済恐慌を引き起こすことになったことは、今からみると少し奇妙な思いにとらわれてしまう。

 

さて、行動経済学はその枠組みを認知科学によっているのに対して、神経経済学は脳科学を枠組みとした行動科学の立場をとる。大雑把にいえば、神経経済学は行動経済学にfMRIなどの脳神経計測や神経画像研究を組み合わせる方法に違いがある。

 

 

ニューロ・マーケティング

 

この神経経済学をビジネス応用する「ニューロ・マーケティング(neuro marketing)」というマーケティング概念が、ここ数年、最もホットな話題と議論を巻き起こしている。文字通り直截的に、脳科学の立場から消費者の脳の反応を計測することで消費者心理や行動の仕組みを解明し、マーケティング応用しようとする試みである。

 

たとえば、2004年に発表された米国ベイラー医大の神経科学者リード・モンタギューの研究チームによるコカ・コーラとペプシコーラの選好に関する実験が、この代表例として知られている。

 

コカ・コーラが好きな被験者に対して、ブランド名を伏せた場合と伏せなかった場合について飲用中の脳の活動を計測した結果、後者の場合にだけ前頭葉が活発に働いたことが観測された。また同様に、ペプシ派の人に実験を行ってみたところ、ブランド名を出した場合も出さなかった場合も、前頭葉における活動の違いが顕著にはみられなかった。そして実験の結論として、コカ・コーラの場合の方がよりブランド名の影響を受けているということがいえたというのである。

 

また、2008年に発表されたスタンフォード大学とカリフォルニア工科大学の共同研究では、商品の価格付けが脳活動に変化を引き起こすことが判明した。

 

21歳から30歳の20人の被験者に、ワインを毎回異なった値段を告げてから数回飲んでもらい、その時の脳活動をfMRIで測定した。その結果、ワインの価格が高くなると、主観的においしく感じたという意見が多くなり、経験による快を司ると考えられる中部眼窩前頭皮質の動きが活発化したことを示した。ところが、被験者に知らされていなかったが、数回飲ませたすべてのワインは同じワインだったのである。

 

つまり、被験者は同じワインを飲んでいても、高い価格のワインのほうがおいしいと感じるし、脳の働きからも楽しさや心地よさを司る部位が活発に活動しているということが明らかになったのである。

 

他にもさまざまな興味深い事例があり、それは類書にあたってもらうこととするが、とにかく、このような結果に対し、脳内のどの部位がはたらいているのか、その役割や相互結合関係はどうかなどについて調べながら、マーケティングやブランディング、マーチャンダイジングなど行っていくのが、ニューロ・マーケティングである。

 

もとより、マーケティングの目的は「顧客(消費者)を捉える」ことにある。 

 

それらターゲットへ向けたマーケティングのあり方には、経済学と同じく、次の対極的な2つの前提がある。1消費行動が理性的な意思決定になされるものか、2情緒的・感性的によってなされるものか、である。

 

前者はほぼ主流派経済学の立場に対応する一般にいうマーケティングである。すなわち、セグメンテーション→ターゲティング→ポジショニングを明らかにしていく分析検討である。つまり、統計科学等を駆使しながら現状分析による市場細分化や、ターゲット選定とターゲットニーズの把握をする。その上で適切なポジショニングを設定して具体的な施策を実行することである。

 

 

だからこの"主流派マーケティング"の方法は、消費行動には背景をなす環境条件があり、それによる必然性(因果性)に基づく合理的・理性的な判断から、商品購入などの消費行為が意思決定される、ことを前提としている。

 

特にWebマーケティングの世界では、商品別、事業別、顧客セグメント別などのプライオリティをパレート分析(ABC分析)し、アクセスログ解析からのユーザ行動調査と比較することで、ポイントターゲティングの集客力、訴求力の向上改善に効果をあげている。

 

しかし、具体的な顧客像の把握と新しいマーケットの創造という面では方法的に限界があり、それを補完するテクニックとして、"シーン消費""物語消費"を喚起するコンテクスト・マーケティングが関心を高めたことは、以前にふれた。

 

後者、すなわち、理性的な消費行動とは180度反対の、情緒・感性的な意思決定による消費行動論を前提としたニューロ・マーケティングの関心は、消費者自身が無意識に魅かれ、手を伸ばしてしまうような発動スイッチを探る手段が中心となる。そして、消費者が思わず買いたくなるようなツボを刺激して、購入精度を高めるための技術を開発することに主眼をおく。

 

 

ニューロ・マーケティングと「偶有性」

 

こうした "ツボ"ついては今後とも取り上げていくことになるが、さしあたって、脳科学者茂木健一郎が提唱する「偶有性」についてふれておく。

 

偶有性(contingency)とは、辞書的にいえば「AではなくBでもありえた/BでもありえたのにAである」こと、茂木の解釈では1「半ば偶然に、半ば必然に起こる」、2「ある程度は予想がつくが、最終的には何がおきるかわからない」、3「完全に予想することはできないが、ある程度の脈絡がある」、4「偶然と必然の間の微妙な「あわい」の領域」としている。

 

茂木は脳機能の特徴である「偶有性への適応」に注目する。偶有性は予測できることとできないことが混在した不確定な状態だが、脳はそうした偶有性に対して「オープン・エンド性」――変化に適応するための学習をどこまでも続けてしまう性質――を持っている。

 

また、人間の感情の内、生存活路の模索に通じる感情である「不安」や、新たな活路発見のきっかけの感情である「後悔」といったものは、「不確実性」あるいは「偶有性」があるために生まれる。経済活動や消費活動を支える「欲望」も、この偶有性によりかき立てられるという。他方、脳の「オープン・エンド性」は偶有性に適応するために学習するが、このとき、脳は快楽回路を作動し"喜び"を感じさせる。そこで、脳の喜びを刺激するような偶有性を商品やビジネスモデルの中に組み込むことで、より大きな成功を得られる可能性が生じる。茂木はそこにニューロ・マーケティングの方向性を見出そうとしている。

 

先に"主流派マーケティング"がWebマーケティングで効果的だとしたが、茂木によれば、Webのメディアこそ規則性と不確実性が混在する偶有性に満ちたフィールドであり、ネット中毒や依存症、あるいはネット用語でいう「炎上」などが社会問題化しているように、人がネット・アクセスする際のデータ量(トラフィック)の決定には脳内報酬系、すなわちドーパミン分泌が大きくかかわっている。だから、ネット広告やクロス・メディアをはじめとしたWebマーケティングの世界は、むしろニューロ・マーケティングのほうが有効なのだ、とする。

 

また、コンテクスト・マーケティングやマーチャンダイジングに偶有性を仕込み、"萌え"を誘発するようなことも考えられるかも知れない。

 

消費者心理を把握することはマーケティングの基本だとしても、人の心を科学的に読みとることがどこまで可能か、将来的に可能なのかは分からないし、過剰な期待をするつもりもない。

 

また、ある経験から生じる統合された感情(感動・印象など)を、神経活動から考えたとして、それがどういう意味を持つことになるのかは、今のところでは分からない。 

 

さらに人の精神領域や思考のメカニズムが"科学的"に解明されることが良いのか悪いのかも分からない。(このあたりを論ずる「神経倫理学(Neuroethics)」の研究が近年来活発である)

 

しかし、感動と経済、あるいはビジネス・リソースを考えていく上でも、これらの分野や動向から目を離すわけにはいかないことであるのは、確かだろう。

× × ×

今回は"特別編"ということで、もともと計画していた連載順序とは異なる話題となったが、いずれ掘り下げる必要のあるテーマとなろうから、その手習い始めとする。

 

次回は本来の順序にもどして、感動・感情の心脳の仕組みのうち、「心」すなわち心理学からの見解についてふれていくことにする。

(・・・・to be continued

感動の源泉(1)

「感動」と脳

 

心脳領域から「感動」を考えてみるためにも、少し迂遠になるが、脳や心の仕組みやはたらきの内、特に強い心の動きにかかわりがある事柄に話題を絞っておさらいしておくことにする。

 

先ず脳のはたらきからみていくと、人の脳は、生物進化のプロセスに由来する異なった性質を持った次の3層からなる構造をしている。

  • 爬虫類由来の脳(脳幹)
  • 動物由来の脳(大脳辺縁系)
  • 人間の脳(大脳新皮質)

生物進化の考えでは、始めに体を動かす神経が発達し、生命を維持するための本能をつかさどる「爬虫類脳(脳幹)」がつくられ、次にそれを覆って感情・情動を司る「動物脳(大脳辺縁系)」が形成され、さらにその外側に理性や思考を司る「人間脳(大脳新皮質)」が発達していったとしている。

 

いいかえれば、人間の大脳は、爬虫類、動物、人の3つの心を同時に持っており、爬虫類の心は食欲や性欲などの本能欲求が命ずるまま行動することを身体にもとめ、動物の心は感情や気分で行動することをもとめる。そして人間の心は合理的・論理的な判断と思考した上で行動を起こす、というわけである。

 

大脳に連なる間脳、中脳、小脳、脳幹、脊髄は、大脳からの命令を実行する一方、環境についての情報や刺激を適切に大脳へ伝え、それらに対してどのように反応するかの判断を仰ぐ。

 

つまり人間は、この3種のレベルの脳の間で生じるさまざまな感性作用の葛藤を調整しながら、さまざまな精神活動を営み日々の行動を決定している。

 

感動の源として最も原初的な情動が快・不快である。この情動を生み、生物の行動をコントロールするいくつかの脳内システムがあることが分かっている。

 

下図の左枠内が不快や不安、恐怖など負の情動にかかわる脳内システムで、右の枠内の部分が快感や満足感などの正の情動にかかわる脳内システムである。

 

 【情動神経回路の概略図】

 

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ここでは「快感・報酬系(以下、報酬系)」と呼ばれる、快-情動を生じさせる脳内システムに注目する。

 

報酬系は人や動物の脳が欲求を満たされた時、あるいは満たされそうなことが分かった時、または報酬を得ることを期待して行動する時に活性化して、その主体に快感を与える神経系である。

 

哺乳類の報酬系は、大脳辺縁系にある扁桃体という箇所を中心としたドーパミン神経系(別名A10神経系)と呼ばれる、次のようなシステムである。(上図参照)

 

なお、ドーパミンは、運動調節、ホルモン調節、快の感情、意欲、学習などに関わる脳内神経伝達物質である。

 

1扁桃体→視床下部を経た情動刺激や、腹側被蓋野と呼ばれる中脳の領域を経由した快感刺激が、大脳腹側の深部にある側坐核という神経細胞集団へ伝わって、2神経伝達物質ドーパミンの放出を促し、脳内に心地良い感情を生む。3同時に自律神経機能とホルモン分泌の中枢である視床下部に伝わり、自律神経反応などを引き起こす。

 

だから"震えるような感動"とは、生理面からいえば、このような脳内回路を経た自律神経系反応による、呼吸や心拍数の変化、筋肉が緊張するなどが生じた状態のことをいう。

 

こうした脳内回路は他にもあり、これらがドーパミンや「脳内麻薬」βエンドルフィンをはじめとする各種ホルモンを複雑に働かせながら、さまざまな情動・感情を生じさせるのである。

 

情動は、通常の思考過程を経ず、ほとんど無意識的に身体性をともなって即座に反応するものであり、感情は、通常の思考過程を経て継続的に形成され変容もしていくものである。だから情動は感情に先行する。このことは情動が生命を管理するホメオスタシス(恒常性)による反応であることと、大脳の3層構造に由来する。

 

そのため"報酬系"はその最も基本となる情動のシステムであり、根源的な行動原理の一つとされる。

 

こうした理由もあって、脳科学の分野では、意識に上る感情をfeelingとし日本語の「感情」をあて、意識に上らない脳内過程をemotionとし日本語の「情動」をあてて区別する。

 

その上で脳科学では「感情」を、"不確実で与件情報の少ない状況で個々の人間に生じるメカニズム"と解釈する。

 

また、この報酬系を活性化させ、ある行動をとると報酬がもらえ、別の行動をとると負を被るフィードバック系のもと、より大きな報酬をもらえるような行動に変化させていくのが、脳科学でいう「強化学習(Reinforcement Learning)」のモデルである。これらの知見は、教育分野にとどまらず、ビジネス分野にも導入され、「情動マネージメント」や「情動マーケティング」という新しいビジネスコンセプトを生み出しつつある。これらの戦略の上からも感動が鍵ファクターのひとつに数えられるが、ここでは触れない。

 

また、ついでに言えば、情動―感情に対応しそれを生起する動因は、欲求―欲望である。哲学者スピノザは、欲求を"ある特定の動因によって活発化する有機体の行動状態を意味する"とし、欲望を"ある欲求をもっていることに対する、そしてその欲求の最終的な成就または挫折に対すること"としている。その上で「明らかに人間には欲求と欲望があり、情動と感情がそうであるように、それらはシームレスに結びついている」といっている。

 

このことについて脳科学者は、情動と感情はホメオスタシスをはじめとする"生命調節"という、生物の最も重要で基本的なプロセスの中で因果的につながっているから、情動は「身体」という劇場で、感情は「心」という劇場で、それぞれに演じられるものだという。

 

とすれば、「感動」の価値や有効性を考えていく上で、この"生命調節"を"生活社会"に置き換えて考えてみてみることも面白いかも知れない。

 

こうした見方については「社会脳(social brain)」がある。

 

ヒトや霊長類のような高次な生物の脳の進化は、集団生活にともなう社会関係の認知の必要性によって促されたとする仮説である。

 

生物の器官のうち脳は最もコストが大きくかかり、ヒトの場合、脳は体重に対し2%程度にすぎないが摂取するエネルギーの約20%を消費する。このような高コストの器官が進化するには、それだけの見返りが必要である。大きな群れで生活する霊長類にとっては、群れ内の順位関係や親和関係をきちんと理解し、他者をうまく社会的に操作することが、生存や繁殖のうえできわめて重要である。さらに、相手が何を欲し何をしようとしているかと心を読むことは、相手も同様のことをするため両者の手の内の読み合いになる。その結果から知性の進化が加速したというのである。

 

このことを前提に、神経活動レベルでの事象が身体的な反応につながり、個人―集団―社会レベルでの事象へ同期させ捉えていくのが「社会脳」研究である。いいかえれば、ヒトや霊長類の文化的・社会的な物事を感情・情動のプロセスで方向づけアプローチし、その脳神経的基盤をどこまで解明することができるかであり、端的にいうならば、社会事象や社会行動に関する脳科学的な研究である。

× × ×

感動・感情について代表的な生理の仕組みについてはここまでとし、次回では心理学の視点からもみていく予定だったが、「感動と経済」というテーマへのリクエストがあったので、今回の題材とも関連深くテーマを考えていくための根拠、というか参考となる経済学の新パラダイム「神経経済」について"特別編"としてふれてみようと思う。

(・・・・to be continued

感動とはなにか(2)

感動とはなにか(2)

 

「感動」の価値

 

現況のところ、感動ビジネス市場を形成するビジネスモデルは、おおむね次の6つのタイプに分けられると思う。

 

1.     キャラクターマーチャンダイジング型

フィギュアからテーマパークにいたる、キャラクターの魅力や世界観を商品・サービスへ昇華するビジネス。

2.     感動商品型

スポーツ、アート、イベント、芝居、映画、ドラマ、小説、音楽、ゲーム、旅行など、感動を引き起こすコンテンツやサービス、情報を商品とするビジネス。

3.     感動参観型

感動コンテンツのライブ参観(スポーツバー等擬似ライブも含む)のように多くの人々と感動を共有する機会を提供するビジネス。

4.     感動参加型

祭りや式典、ワークショップ、あるいはギャンブルなど、状況への主体的参加や関与、一体感による感動を提供するビジネス。

5.     プチ感動型

ユニーク雑貨や新しい味の食品、ストレス解消グッズや情緒訴求玩具などのような、日常的にささやかな感動を呼び起こす商品やサービスを提供するビジネス。

6.     感動関連商品その他

薄型大画面テレビやDVDレコーダー等デジタル家電のような臨場感で感動を増幅する"感動関連"商品やサービスに関するビジネス。また間接には接客対応にはじまる顧客満足向上(CS)サービス、従業員満足向上(ES)サービスなど。

 

これらモデル・タイプからみて、企業が「感動」に使用価値を感じて利用する目的は、大きく次の3つに大別できる。

 

l  「感動」を追求する開発コンセプトによるモノ・サービスづくり 

l         感動を提供する体験の場やコンテンツ提供、感動の商品づくり

l  「感動」をサービス基準においた、サービスプランへの反映と顧客・従業員満足(CS/ES)の向上

 

今のところでは、企業ビジネスにおける「感動」の使用価値は、おおよそこうしたところであるとみていいだろう。

 

企業ビジネスにおける「感動」というものの使用価値がおよそそうだとしても、一般的に人はなぜ感動をもとめるのだろうか、そのどこに価値をもとめるのか。

 

インターネットで少し見ていくと、広島大学大学院の戸梶亜紀彦さんという心理学の研究者による「『感動』体験の効果について」と題する論文サマリーが目にとまった(※注)。心理学から見た感動の価値についてコンパクトに整理してあったので引かせていただくことにする。

 

■感動の3効果

1.動機づけに関連した効果:ヤル気・肯定的思考・自立性・自主性・自己効力

苦労している最中の不快な状態から、目標が達成されることにより心身が一に解放され、快の状態がもたらされる感覚とともに、不快から快への認知的なギャップの大きさによる対比効果を伴ってより大きな達成感が生じ、感動が喚起される。

2.認知的枠組みの更新に関連した効果:思考転換・視野拡大・興味拡大

体験における新しい考え方・価値観との出会いや新たな経験とは、今まで生きてきて築き上げてきた考え方や価値観に対し、大きな動揺(不快な状態)を引き起こすものであり、それらが得心のいくものであった時に不快な状態から開放され、感動にいたると考えられている。

3.他者志向・対人受容に関連した効果:人間愛・関係改善・寛容・信頼・利他意識

不安な状態におかれていた、孤独だった状態で思いやりのある行為を受けることによる不快な状態からの開放が感動を喚起する。

≪まとめ≫

感動体験は、強烈な情動体験であるため記憶に残りやすく、したがってその効果には持続性があり、記憶を再生することによっても再度その効果が強化される側面を持つ。感動体験はすべてが肯定的体験であることから、想起することに抵抗を感じることはなく、むしろ快い気分になると考えられる。

 

また、感動体験の浅い・深いといった質に対する主観的な評価判断の基準については、心理学者A・マズローの「欲求要因ヒエラルキー説(自己実現論)」が思いあたる。大雑把にいえば、人間の欲求は階段のようにその人が成長するにつれて高度になるという説で、それは以下の五つの階層からなる。 

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つまり、階層が上がるにしたがって欲望対象がより高次で抽象的なものになり、そこで働く感性の質も、本能欲求→情動→感情→知性、へと高度なものに遷移していく、というのである。"深い感動-浅い感動"の度合いは、これに対応するとみておいてもいいだろう。

 

であるならば、A・マズローの欲求要因ヒエラルキー各々の階層にそれぞれを充足させる「感動」が存在する。とするならば、それらセグメントと「感動」との関係の中にビジネス戦略を仕込む領域がある。

 

はじめの方でいったように、成熟した消費社会では経験価値経済の傾向が顕著になる。そこでは感情を高め興奮させる「感動」を演出することが重要であり、市場と顧客の創造の鍵ファクターのひとつとして「感動」がある。ターゲットへ向けた素晴らしい価値ある感動経験を提供することがビジネス優位性の鍵になる。キャッチフレーズ式にいうならば、"顧客満足から顧客感動へ"というわけだ。

 

前にもふれたように、現在、マーケティングや経営の世界では、感情や情動、本能欲求がどのように消費者行動に影響を与えているのかに注目が集まってきている。心脳事象と消費者行動との関係を科学的に分析研究し、実際のビジネスに役立てることができないか、というのだ。

 

もちろん、こうした経済心理の研究は昔から行われていたが、従来のテクニックでは、現実の消費行動がケースバイケースであまりに複雑過ぎるので外部観測からの分析が困難なことや、感情や情動、本能欲求といった人間の心脳レベルでのふるまいを計測する手段が確立していなかったこともあって、十分に役立つ成果を生み出すことができなかった。

 

ところが21世紀以降急速に進展した脳科学や認知科学などの知見や技術が、それら従来の欠点を補い、具体的に研究するための糸口を見つけつつある。たとえばfMRIなどの脳神経計測の結果から、情動が脳と身体を起動し感情経験を引き出すプロセスとしてあることや、それがどのようなふるまいかたをするのか、その結果どのような行動にいたるかの見当がついてきたのである。

 

そして、こうした最新の科学研究成果と技術を積極的に取り入れて、感情や感性で物事を全体的に捉えようとする「情動マーケティング」や、無意識レベルにもとづく消費行動からアプローチする「潜在マーケティング」といった心脳マーケティング領域への関心が高まってきたのである

 

これから考えていきたい、マーケティングをはじめとする「感動」のビジネス・リソース探しも、そうした流れの中に属するものだろう。

 

ただし、本人が気づかないまま意識を特定の方向に誘導するマインド・マネジメントや脳情報を読み取るマインド・リーディングなどを方法化する心脳マーケティング領域のありようは、現在のところ、その用途の倫理性から手法自体の科学的妥当性にいたるまで議論百出の状況があることは十分留意しつつも、事象として「感動」をみるうえで大いに興味がそそられる。               

 

次回はこうした角度から、心脳事象としての「感動」についてみていくことにする。

      (・・・・to be continued

 

※注: 執筆時点から後日、同論文が広島大学学術情報リポジトリという、同大のインターネット電子書庫でこの論稿が公開されていることが分かったので、興味のある向きはアクセスすることをお薦めする。(http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/niikiyo/KJ00004257034.pdf

 

感動とはなにか(1)

「感動」という言葉

 

あらたまって「なぜ感動するのか」「感動とはなにか」と問われた場合には、それが個人的な主観体験であり過ぎるためか、しばし言葉に窮し、答えようにもどこか焦点が定まりづらい感がある。

 

さしあたって「感動」を言葉の面から少しみていくと、まず「感動」は学術用語ではないから、学術的な定義はない。

 

そこで手近な辞書、広辞苑を開けてみると「感動」の語義を"名詞。深く物に感じて心を動かすこと"と簡潔に示してから、「名画に感動する、感動を覚える、感動にひたる」の用例が続く。

 

広辞苑よりも大きな辞書、日本国語大辞典を開けてみると、

    1. 強い感銘を受けて深く心を動かされること、
    2. 人の心を動かして感情を催させること、
    3. 他からの刺激に反応すること、作用を受けて動くこと、または動かされること

の3つの語義を示している。 ついでに言えば、この辞典の大きな利点は、語義それぞれに歴史的用例の記載があることだ。つまり、史料で遡れる限り、それがいつの時代から使われているのかがわかるのである。

 

せっかくなので、少し道草すると、「感動」という言葉の最も古い記載は平安時代初期の「性霊集」で

「糸竹金土、感動鬼神」

とある。同じような記述は南北朝時代の「太平記」にもあり、

琴の音を聞いて鬼神が感動した

とある。

また南蛮交易初期の外語辞典「日葡辞書」には

zuiqui cando(ズイキカンドウ):訳⇒歓喜と喜悦」

とある。

 

また、「感動」の古語は「感ける(カマケル)」である。再び広辞苑をのぞくと

    1. 感ずる、感動する、心が動く。
    2. 一つのことに心をとられて、他がおろそかになる。拘泥する

と語釈されている。ついでに言えば、「感けわざ」という古語は「神に捧げる豊作祈願の踊り」のことである。

 

次に英語で「感動」に相当するのは"impression""emotion"、あるいは"excitement"である。

 

また、感情も英語で"emotion"であり、辞書には「〈気持〉〈心持〉のような、人間の心理状態の受動的で主観的な側面」とある。

 

心理学など科学分野では"emotion"を「情動」と訳し、「怒り、恐れ、悲しみ、などのように急激に生起し比較的激しい一過性の心的作用をさす。自律神経系の興奮による発汗や循環系の変化、あるいは表情の変化など身体的表出を伴うことが多い」としている。

 

英語のemotionと日本語の情動/感情のニュアンスの差異について補足すれば、心の動きで急激で強いものは情動、そうでないものは感情、といった感じだ。また、精神医学や心理学ではさらに、感情(emotion)と気分(mood)を区別することもある。これからの展開で、しばしば"心脳"分野の話題にふれるが「感動」それ自体についてひも解く際には、専らこれらの用語を使い分けて話を進めていくことにする。

 

ところで、「感動」の表現語彙はどれだけ広がりがあって、どのように分類できるのか。それについては、NHK放送技術研究所による「感動の分類と感動の評価語についてという先行研究がある。

 

技研では、音響システムの開発技術を評価するために、周波数特性など物理量の良さだけでなく、人が感覚的に感じる良さを尺度に加え、その基準に「感動」をおいた。ところが、感動には喜びや悲しみなどのさまざまな心理状態があり、しかもその定義は研究者の間でも曖昧なものだった。

 

そこでアンケート調査で150の感動表現語を収集し、個々のニュアンスの類似度(言葉のニュアンスの心理的距離)をクラスタ分析して、3つの感受対応の仕方のもとで、「感動」として内包されるニュアンスを、6カテゴリーと12クラスに分類している。(下表)

 kansoken09052501.jpg

[. 感動の分類と感動の評価語:NHK放送技術研究所.2005年に基づき作成]

 

なお、この研究報告書では、「感動」を"肯定的な体験を表現する総称であり、伴う感情の質だけではなく、心が動く向きによって分類される"ことがわかったと結んでいる。

 

また、大手広告代理店の博報堂は、イベント・プロモーションの価値測定手法「EVM」というコンサルテーション・サービスを開始している。その中でイベントの特性である「感動という質的効果」を指標化しており、その評価属性として「感動」を次の3つの価値群と10個の要素に分類している。

 kansoken09052502.jpg

[. 感動の質的評価の属性:博報堂「EVM」プレスリリースに基づき作成]

 

「感動」という言葉とそこに内包されるもの、についてはここまでとして、次回はその"価値"はなにかというところをみていこうと思う。                    (・・・・to be continued

物語消費とシーン消費

 

ところで、「コンテクスト・マーケティング」というマーケティング用語がある。

 

消費者行動の背景にあるコンテクスト(文脈)に則して行なうマーケティングで、ユーザ個人の日時・場所・行動などの状況に沿った形でタイミング良く、情報や商品、サービスを提供していくマーケティング手法のことである。近ごろではインターネット広告やデジタル・サイネージといった分野でよく用いられている。

 

その手法の一つに「物語マーケティング」がある。しつらえた物語(コンテクスト)にユーザを感情移入させ、その心理を巧みにくすぐりながら展開するマーケティング・テクニックである。

 

物語マーケティングの前に、それと対応する「物語消費」という概念についてふれておく。これについて80年代に評論家の大塚英志が指摘していることは前にもいった。大塚は「ビックリマンチョコ」を例に、意図的に断片化された物語を読者、受け手が想像/創造しながら消費していく行動パターンとそのマーケットの姿を示した。

 

「ビックリマンチョコ」というのは、1977年にロッテが発売したカードシールをオマケとした子ども向けのお菓子である。「悪魔VS天使」などのシリーズがあり、シールの裏面にはそのシールのキャラクターの性質やそれらが存在する世界、そこで展開している壮大な物語の断片らしい文章が思わせぶりに載せてある。子どもたちはシールをコレクションするうちに、この「壮大な物語」の存在に気づき、その物語世界にアクセスしようと商品を買い続ける。

 

次第にその収集熱はヒートアップし、目当てのシールだけを抜き出して本体のお菓子を捨てるという事態が全国で多発し、当時は社会問題となった。

 

従来から子どもたちの収集欲を刺激するシリーズ物のオマケは食玩分野の商品戦略の定番だったが、それはあくまでシリーズ物を集めることが目的だった。ところが「ビックリマン」の場合では、キャラクターたちの物語の断片集めにはじまる物語世界の"再構築"が目的になっているところに大きな違いがあることを、大塚は指摘した。

 

つまり、単なるオマケ付きお菓子だった商品を、子どもたちが「物語」という商品に転換して消費したのである。いいかえれば、消費者(子ども)が勝手に"付加価値商品"をつくりだし、勝手に熱中消費したのである。この新しい消費傾向を大塚は「物語消費」とした。

 

ここで「物語消費商品」を戦略化し仕掛ける「物語マーケティング」に話題を戻す。「物語マーケティング」を唱えた福田敏彦は、著書「物語マーケティング」(竹内書房新社1990年)の中でマーチャンダイズされる商品に次のものを挙げている。取り上げた例は今では古いが、そのまま引用する。

 

◆RPGゲームや物語コンテンツ商品のように直接物語を売るもの

◆「ビックリマンチョコ」のように背景に物語が潜んでいるもの

◆サンリオなどのキャラクター商品、ビール「冬物語」のようにネーミングで物語を使用したもの

◆からくり時計のようにプロダクトデザインが物語性をもつもの

◆「東京ディズニーランド」や「サンリオピューロランド」のようなテーパーク、物語性をもった店舗空間

◆物語型の広告など。

 

福田は続けて「物語マーケティング」のコンセプトを拡張し、「物語消費」より広い概念として「シーン消費」と「シーン・マーケティング」という概念を提案した。

 

「物語消費」は、物語(コンテクスト)への感情移入とその心理誘導や演出により誘発されるものであるが、「シーン消費」は、商品を使用するシーン(場面)と、それを使用するTPO(シークエンス)をひっくるめて消費者が選択をする行動パターンをいう。そのためシーン消費は、消費者のライフスタイルと直接的に関連し、彼らの側もシーンを消費すると同時に、その中に自分のアイデンティティを重ね合わせて表す意識をますます強めていくことになる。

 

このシーン消費を刺激する「シーン・マーケティング」の典型的な手法は、たとえば、ファッション・グッズ関連の情報誌が、「クリスマス・イブを二人で幸せに過ごす時の...」のような情景を設定し、どんなファッションが決まるとか、どこへ行けば感動的な一日が演出できる、といった設定を重ねてシーンを描き、そのストーリーラインに沿って商品情報を紹介するようなやり方である。

 

だからシーン・マーケティングは、経験価値経済型マーケティングの典型といえる。

 

シーン・マーケティングは、マーケティング分析が価値観多様化の中で具体的な顧客像の把握に限界が感じられたため、あえてそれを放棄し、このように特定場面を想定した上で、そこに登場する人物が抱くであろうニーズを仮説設定する方法をとってみたわけだが、それが意外と効果があったことで生み出された。

 

これまでもテレビドラマや映画製作の分野では、場面中の小道具に特定商品を露出し対価を得るなどで製作コストを抑える"タイアップ"はあったが、それとは似て非なものだ。

 

つまり、シーン・マーケティングの最もユニークなところは、これまでのマーケット・セグメンテーションが現実に存在するニーズを分類する手法であったのに対し、意図された特定の物語シーンへの共感や感情移入の度合いを強化していくことで、それまで現存しなかった新しいニーズを創造する可能性を広げたところに方法論としての価値がある。

 

舞台/劇場空間化した都市空間の演技/観客者である消費者に演じさせるために、必要な進行台本と演出方法にあたるのが、これらなのである。

 

これまでふれてきたことを整理すると、次のようになる。

  1. 高度成長期以前の消費は基本的に「必要なモノを買う」消費だった。あるモ  ノが欲しいのになかなか手に入らない。だからこの意味で稀少価値というものが存在し、消費はそれを獲得する欲求充足以外のなにものでもなかった。
  2. ところが、その後の経済成長の中で生産が増大し基本的な欲求や必要を十分満たしてしまってモノが有り余る段階になると、消費の様相も一変した。生活する上で必要最低限のモノやサービスの消費を第一義におくことから、新しいモノ、かわいいモノ、珍奇なモノ、気分を持ち上げてくれる徹底的に演出されたサービス、自慢できる体験、ファッショナブルな空間などを選択基準に消費するようになった。
  3. このことは、自己満足もふくめて他者との関係における意味、つまり「社会的意味」において消費する意識が支えており、たとえば「自分らしさ」「リッチな気分」「ハイセンスな生活」といった対象の表示する意味それ自体を消費することが行動に直結しやすくなった。
  4. インターメディア社会の急速な進展やディズニーランドの開園等をバックグランドに、モノそれ自体の価値だけでない、感性・情緒世界の非リアルな価値による判断意識が加速される。また、それとともに非日常の気分が日常生活にも滲み出ていくようになり、経験価値経済、都市空間の劇場空間化、物語・シーン消費、などの消費文化傾向が顕著になっていった。
  5. 社会傾向として感性や情緒がビジネス面でも優位性を示しつつある一方、脳科学や認知科学などの研究が急速に進展し、それまでの医学や心理学などの領域から、経済・マーケティングや経営分野にも拡張しはじめ、ビジネス界のキー概念として関心が集まるようになってきた。

 

こうした、状況や変動に対し、「感動」という概念やその体験がどのような意味合いを持ち、いかなる価値を持つのか。これからの時代における「感動価値創造」というものはどのようなものであるのか。背景状況についてはここまでとして、次回からは「感動」それ自体について考えてみようと思う。(・・・・to be continued

劇場化する都市空間

 

次にそうした消費シーンが展開される生活空間について目を向けてみよう。

 

高度消費社会以降、90年代あたりから、日本の都市開発分野では、都市空間の劇場空間化というテーマをよく見聞きするようになる。ただしそれは劇場を中核においた都市開発のことではなく、都市に劇場の記号性を与えるという意味で、人びとを装わせ演技させるメディアとして都市空間をとらえて活用しようとする考え方である。

 

2000年代になり、バブル崩壊のほとぼりが冷めたあたりから、都市再開発の分野でこのフレーズが再び聞かれるようになってきた。

 

現在では、わざわざ都市記号論を援用するまでもなく、都心近在や地方の少女にとっての「竹下通り」や「渋谷」、オタク系にとっての「秋葉原」や「池袋」、女性や若者にとっての「東京ディズニーランド」や「六本木」「代官山」、高齢者にとっての「巣鴨地蔵通り」、といった街の意味合いを少し考えてみれば、都市空間の劇場化という見方は実感できるだろう。

 

この都市空間の劇場化というコンセプトの着想の背景に、テーマパーク、というよりも東京ディズニーランド(ディズニー・リゾート)の出現があった。

 

ディズニーランドは、それまでの単なる来園者を「ゲスト」として扱い、従業員は「キャスト」と称し、その空間環境を非日常的で祝祭的な舞台装置として造形演出する。さらに園内だけでなく周辺のホテルや商業施設も同様の環境演出等で巻き込みながら、一帯の都市空間を劇場空間化して非日常型消費を活発にする装置産業を創り出した。

 

こうした劇場的都市空間あるいは祝祭的都市空間の登場以降、人びとの間にそれを使いこなす生活感覚が増えはじめ、次第に非日常的雰囲気が日常空間に急激に滲み出るようになった。そこに都市開発や都市再生の手法としての有為性が見出されるようになったのである。

 

「舞台/劇場空間」の記号性を帯びた空間は、自然とそこを往来する人びとを"演技者"とし、かつ"批評性を備えた観客"にする。

 

見るだけでなく見られる場所。そこは「ファッションを売る場所」であるだけでなく、「ファッションを着ていく場所」となり、「ソフィスティケートを顕示し合う場所」へと変わっていく。

 

現代の都市生活者は、TPOにあわせて空間を選択する行動スタイルを持つようになっている。そして選択で色分けされた場所の意味合いは、よりセグメンテーションと先鋭化を強めていく。つまり、その場所に付与された記号性が自律的に意味を再生産し、より発信性を高めていく空間装置と化していくのである。

 

こうした "舞台/劇場空間"としての特権性を獲得した都市空間における人びとが演じるパフォーマンスについて、吉見俊哉は高度消費社会特有の意識状況を分析しながら、以下のように描き出している。

 

【そこでは〈演じる〉こと自体のなかで演じる者の個性が発見されていくのではなくすでにその意味を予定された「個性」を〈演じる〉ことによって確認していくという意味で、〈演じる〉ことはアリバイ的である。一方では、演じる主体としての「私」が個別化された私生活のなかに保護され、他方では、演じられる対象としての私の個性」が都市の提供する舞台装置や台本によって保証される、そうした二重の機制が、人びとの関係性を様々な生活場面で媒介していくために、人は、「個性」を選択することが個性的であることを証明し、「私の世界」をもつことが自己のアイデンティティを証明することでもあるかのように感覚していくのだ。】(「都市のドラマトゥルギ――東京・盛り場の社会史」弘文堂1987)

高度消費社会の消費文化

 

それでは、いかなることで、こうした経験価値経済や人の深層レベルにまで踏み込んだマーケティング、あるいは "感動消費社会"傾向が顕著になってきたのか。まずはそのいきさつを消費文化の高度経済成長期から現在まで状況の推移を少しおさらいしながら見ていく。

 

1980年代に日本は本格的な高度消費社会に達したとされる。高度消費社会が成立するための前提条件は、国内における生産過剰である。そこで企業は新たな供給先をもとめて海外輸出を拡大するとともに、国内では新たな需要を喚起し消費させるための新しい価値観を提案していくことになる。

 

その結果、まず消費の個人化が起こった。たとえば、それまで一家に一台所有することが目標だった家電や自動車などの耐久消費財が、一人に一台の普及を目指すようになった。また、消費の対象が物からサービスへ重心を移し、外食、娯楽、旅行などの消費機会が増えた。

 

商品・サービスが多様化した結果、人びとの関心はモノの実質以上に、デザインやブランドなどの差異性や、消費行為自体がもたらす「気分」や生活のファッション性へ向かうようになった。

 

それ以前の70年代前半までの消費に内包された目的は「物的豊かさへの希求」だったが、そこには、近代化、洋風化、さらには新しい家族観や国際人としての日本人になることを目指すという社会的意味もあった。

 

しかし、70年代半ばに一億総中流(という気分)が達成されてからは、それまでの誰もが同じ物を消費する「大衆消費社会」とは様相が変化し、「少衆」「分衆」論に代表されるような、市場細分化現象への発言が活発になりだした。

 

また、その一方、少衆・分衆論はマーケティングとしては正しくても、消費社会論としては的外れとする批判もあった。中流化や近代化といった誰もが共有していた消費の社会的意味がひと区切りし、消費することの意味を個人が引き受けなくてはならない新しい時代が始まったとする意見である。

 

戦後日本の生活文化や価値観に大きな変化が起こったこのあたりから、消費行為にともなう心的事象や"物語性"といったものが、戦略ツールとして意識されはじめたのではないだろうか。

 

続く80年代のバブル景気が到来すると、ポスト消費社会をめぐるさまざまな見解が提示されはじめた。その代表的な見解のいくつかをあげ、当時の風潮を振り返ってみる。

 

劇作家・評論家の山崎正和は論文「柔らかい個人主義の誕生」で、消費が個人的な行為であればこそ、それが社交文化や人格(品格)の洗練につながる可能性があることを示した。

 

対して社会学者の西部邁は、社会的意味のない自己満足的な消費の無秩序な増殖は大衆社会独特の頽落の危険であると批判した。

 

一方、大塚英志は都市民俗学の視点と、当時ジャーナリズムに出はじめたポストモダン文化論を援用しつつ、大きな社会的意味に代わって小さな個人的意味をもとめる「物語消費」の台頭を指摘した。

 

また、作家田中康夫はデビュー小説「なんとなく、クリスタル」にはじまる論調で、"岩波文庫もルイ・ヴィトンも、それを所有する者にとっての精神的ブランドだという点では等価である"と指摘した。それに対し文芸評論家の江藤淳は、ブランド所有に代表される消費行為は自己顕示であり、異性を引きつける手段であり、他者のまなざしを想定した行為であったが、さらにいえば、欧米という他者への依存意識(アメリカの影)に支えられているに過ぎず、個人的意味(自分らしさ)への追及などではないと批判している。

 

他方、広告・コマーシャリズムの状況として、PARCOに代表される西武セゾングループの「おいしい生活」をはじめとした一連のイメージ広告がある。それには消費の新しい社会的意味の問いかけと、自分らしさの追求の可能性を示唆する感覚もあったため、広く注目された。

 

また、マーケティングの世界ではJ・ボードリヤールに代表される消費記号論の流行があった。消費社会は商品という記号が多様性と差異性のもとで記号ゲームを演ずる、そのためにもマーケティング戦略には記号演出が必要だとする。

 

マーケティングに記号論を導入しようとするこれらの試みも、あくまで消費文化論の域を出ず、ビジネス現場での実効性が不明瞭なこともあって、「デザインが勝負」「ネーミングやブランドで売れる」といった短絡した風潮や誤解、混乱を一部にもたらしただけにとどまっている。

 

それでは高齢少子と経済の低成長、格差社会といわれて久しい現在の様相はどうなのか。

 

ボランタリー経済やエコロジー消費などのような「柔らかい個人主義の誕生」で期待した成熟消費の萌芽が感じられるとはいえ、評論家東浩紀が「動物化するポストモダン」と表現したような、ただ欲求を即座に満たすことだけが目的で、自己満足的な「動物的」なものになっているようにも思える。別にいえば、消費行動という経済合理性による価値判断が働きやすい行為が、知性や理性ではなく、感情や感性といった「情動的」なものに優位性を示す傾向が顕著な印象が強い。

経験経済と感動価値

 

感動とビジネスを考えていく上で、参考になる見方のひとつに「経験価値経済」がある。

 

経験価値経済という言葉はまだあまり一般的ではないが、マーケティングの世界ではある程度常識的な概念として、しばしば目につくようになってきている。その基本文献でもある「経験経済(Experimental economy)」(BJ・パイン、JH・ギルモア著)の出版が流布のきっかけである。

 

経験価値経済の考えによれば、高度に成熟した消費社会や市場では、性能・品質・価格訴求だけのプロダクツ型経済や、顧客便益をカスタマイズするサービス型経済ではない、製品やサービスを付加価値づくりの道具として用いることで顧客の経験を演出し、消費価値を感じさせることが重要なのだという。

 

経験価値経済化するまでのプロセスを大掴みにいえば、まず、成熟社会の特徴として「目が肥えた消費者(トフラーのいう"プロシューマ")」が台頭しそれが一般化すると、彼らは商品を取り巻く経験(体験)までを含めた事柄に対して付加価値感を持つようになり、その上で幾らの価格が本当に自分にとって妥当なのかを考える癖がついてくる。この意識が広がりを持ち深まるにつれ、消費(需要)側が独自の価値意識で値付けをおこなう市場が形成される。

 

たとえばオタク市場のようなマニア同士の世界や、画商・骨董商などのプロ同士の市場では、モノの値段が、市場に出てくる前におおよその相場観として決まっている。特定の価値観を共有する者同士が、その価値観上での鑑識のもとで商品の値付けをおこなう世界だからだ。今、こうした経済行動が、マニアやプロの領域を超えて、一般消費の世界に広がりつつあるという。

 

品質や性能ではなく、プラス付加価値のある商品。こと経験経済における付加価値は、供給側が付与するモノそれ自体に備わった付加価値ではなく、需要側の勝手なこだわりや思い入れをモノに投影した幻想が生み出す付加価値である。さらにそこには、モノの消費自体を目的としない、モノを消費するプロセスを通じて何が経験できるかということも含まれる。経験価値経済では、このような感覚も含めて付加価値とするのである。

  

限定の高級ブランド品を購入するための行列待ち、隠れた名店や名品探究のお宝探し、ネット・オークション利用の一般化などのプロセス体験にも魅力をもとめて行動をとる消費感覚。あるいは、高級嗜好品と一般用品と値ごろ感の境界線の融解。――見わたせばこうした状況が急速にあちらこちらに広がっている。

 

これらのマーケット現象についてはこれまでにも、記号消費、物語消費、快楽消費、感動消費などさまざまな切り口で考察されてきているが、こうした事態が「消費価値経済」から「経験価値経済」へ時代がシフトしているあらわれと考えられはしないだろうか。

 

また、経験価値経済化における消費傾向について次のような説明もある。(ハーバード・ビジネス19991月号「体験価値の創造をビジネスにする法」)

かいつまむと、著者は経済価値(人は何に対してお金を払うのか)の変遷を4つの段階に分け、それをバースデー・ケーキの例を引きながら説明する。

  

【第1段階:農業(1次産品の採取)】・・・19世紀以前

 ⇒母親たちは小麦粉などの農産物を使い、ケーキを材料から手作りしていた。

【第2段階:工業(財の製造)】・・・19世紀末から1960年代

 ⇒小麦粉やバターの代わりにケーキ・ミックスを買ってくるようになった。

【第3段階:サービス(サービスの提供)】・・・1970から1980年代

 ⇒ケーキ屋に、ネーム入りのケーキを頼むようになった。 

【第4段階:体験(体験の演出)】・・・1990年代から

 ⇒イベント企画会社に、思い出に残る誕生会の運営を委託するようになった。

 

つまり近代以前では、農産物などの1次産品を取引対象としていたのが、その後、工業優位社会になると人びとは加工品を購入するようになった。さらに時代が進むと、モノやハードではなく、サービスやソフトが経済の対象となった。そして、今や「経験価値経済」の時代に入ったという。

 

こうした経験経済化した市場に影響力をもたらすものは何かといえば、

・どのような経験が消費欲求を高めるのか。

・その経験がユーザ側の生活にいかなる付加価値をもたらすのか。

――の二つが大きな鍵であり、それにより商品やサービス価格の相場観が決る。だから経験価値経済の立場では、これらの点を考慮して売り方を考えないとコモディティ化が進むという。

  

コモディティ化(commoditizing)とは、ある商品カテゴリで競争商品間の差別化特性(機能、品質、ブランド力など)が失われ、供給価格や供給量を判断基準に売買が行われるようになるという意味のマーケティング用語で、大雑把にいえば陳腐化のことである。多くの場合、商品価格の下落を引き起こすため、特に高価な商品が低価格化・普及品化することを指して"コモディティ化する"という場合が多い。

  

そのため供給側は、コモディティ化して価格が下落することを抑制するために、消費市場の欲望水準を高い水準に保ち常に刺激し続ける努力が必要となる。

その代表的な対応策が企業のブランド戦略である。ブランドは、ある商品・サービスを別の商品・サービスから区別するためのネーミングやマーク、模様といったシンボルだけでなく、消費者がその商品・サービスを見た際に想起する周辺イメージも総体的に含んでいる。

 

だから、ブランド消費の引力とは、商品・サービス自体だけでなく、それを供給する企業の価値観・世界観への共感や同意といった支持する大きさの力とみることができる。

 

多くの場合ブランド戦略は、それらをより広く豊かに伝えるための"物語(体系化されたメッセージやイメージ群)"を必要とし、それによってある価値観や世界観が、外部にうまく伝えられ響かせることができたかどうかで勝敗が決まる。

 

そのため、自社の倫理性や品格も含む市場品質水準を維持向上しつつ、それらを取り巻く"物語"とともに商品を供給し続けるための企業戦略を展開する。

 

この"物語"の出来いかんで、ブランドへの強烈な印象と広範な好意や支持の獲得に影響があるのだから、強く心を動かす感動的な物語要素と演出がもとめられることも多くなる。

 

成熟した消費社会では、このような経験価値経済を意識した事業展開が顕著な傾向にある。感情を高め興奮させる「感動」で消費が促されるならば、彼らに素晴らしい経験をさせるノウハウやテクニックが、ビジネス現場でよりもとめられるのは自然の流れであろう。

 

また、このような状況に反応して、現在、マーケティングや経営の世界では、従来のビジネス心理の研究に加え、脳神経科学や認知科学を応用して、さらに直截的に感情や情動、本能的な欲求といった深層レベルでの作用がどのように消費行動に影響を与えるかの解明に注目が集まっている。

 

感動と経済の関係メカニズムにかかわるこれらについては今後の展開の中で順を追ってふれていくことにする。

 

次回も、感動と消費文化のかかわりを、別な角度からみていくことにする。

(・・・・to be continued

感動したがる人びと
 
もちろん、こうした「感動」流行りの状況を苦々しく感じたり冷ややかに見て、これらは本当の「感動」ではないとする向きもあろう。「感動」とは知性・感性・倫理など高度な精神の内発的な働きであり、強烈な感動が個人の人生を変えることもしばしばある、といった意見である。そうはいっても、先のアンケート調査のように、世の中は感動というキーワードへの関心とそれをもとめるニーズは高まっているようだ。

そして受け手が「これで泣ける」とか「これで感動できる」と予定調和的な効能をもとめ、その期待を裏切ることなく提供する映画や小説、ドラマなどが軒並み生産され、ヒットしているのも事実である。評論家の大塚英志は、この感動の商品化に対応した消費状況を「物語のサプリメント化」だという。たとえば、泣くということはカタルシス(精神浄化)であるから、これらは感情の機能性商品としてもとめられているモノだというのだ。

いっぽう、こうした感動ブーム(?)に対して、主に精神医学や臨床心理などの分野から"境界不鮮明化" による一種の社会病理現象だとみる意見もある。おおよそは次のような見解である。目まぐるしく変化する現代社会では、大人と子ども、男と女、世代間、社会的役割、仕事と遊び、あるいは季節や昼夜など、ありとあらゆる面で差異性の境界が不鮮明になり、正常と異常の区別が曖昧になってきている。

心の病気にいたらない健康な人の間にも、そうした境界意識の希薄化が広がり、日常的に感情の起伏を直接表出しやすい人たちが急増している、というのだ。突如、感情を暴発させ「キレる」人や、クレイマーやモンスター・ペアレンツなどの増加、さらには詰らぬ小競り合いに端を発した衝動的な殺人事件の頻発などが、報道記事で多く取り上げられることが、ここ十数年顕著なのも確かである。
 
こうした現状認識の限りでは、泣く、笑う、怒るといった感情は、以前よりもはばかることなく表出しやすい傾向が強まっているようであり、特に若い世代になればなるほど、自分の感情をうまく扱うことができなくなってきているという指摘もある。つまり、感動しやすい高感度で繊細な感性が成熟してきたのではなく、理性や悟性により感情をコントロールする能力が著しく低下しているというのである。

また、その背景として、急速に普及したインターネットや携帯電話、ビデオゲームなどICT&マルチメディア技術への適応不足や過剰適応が、感性面での現実と仮想との境界融解を加速させ、生活リアリティや実存感が欠如した気分を蔓延させている、とする見方もある。確かに携帯電話でいつでもどこでも話せ、インターネットにつなげば調べものが容易にできる便利な時代になった反面、現代人はじかに他者と会話し接触することから距離をおくようになっている。

インターメディアは、コミュニケーションの密着性が表層的には感じられても、道具を間にはさんだ違和感や不自然さが常につきまとう現代社会特有のコミュニケーション環境を形成する。インターメディア利用の広がりとともに「こころの知能指数」と呼ばれるEQ(Emotionally Intelligence Quotient)なる言葉や、「空気」が読めるの読めないの、といったような感情の距離感を測りあうことが流行ったが、これなどもそんな時代のムードを反映しているのだろうか。
 
こうしたバックグランドがあるとするなら、今後において、人びとは「感動」を提供する商品や、「感動」が享受できるリアル・コミュニケーションの場や機会をより求めていくことになるのかも知れない。そしてそこに資源としての感動価値というものが感じられそうだ。
 
新たなテクノ・スケープの台頭は、人びとの心身を変容させる。だとしたら感動の感受の仕方や、感動に対する価値意識も、インターメディア時代の前後では変わってきているのかも知れない。ならば、これから「感動価値の創造」というテーマを考えていくにあたっては、こうした現在進行形の変容状況や、その延長にある未来形のイメージも射程に収めておく必要があるのだろう。
 
次回では、感動と消費文化のかかわりに目を向けてみようと思う。(・・・・to be continued

巷にあふれる「感動」
 
人は感動する。誰でも感動体験を持っている。わたしたちは日々の生活の中で、喜怒哀楽いろいろの感動的出来事を経験している。それには極私的なものもあれば、家族や恋人、友人、仲間など他者と交感、共感によるものもあるだろうし、その質にしても、心身がムチ震えるほどの感銘もあれば、「超ーカンドウ!or ・・・」といった軽い印象に過ぎないものもあるだろう。

とにかく、社会のさまざまなところで感動が生産され、人を動かしている。そして人びとの感動に対する欲求には尽きることがない。だから、豊かさの方向性が「便利さ」や「快適さ」から「楽しさ」へと重心を移しつつあるなかで、巷では感動消費市場が活況である。泣ける本がベストセラーの上位を占め、泣ける映画は満員御礼、テレビのスポーツ番組では「勇気と感動をありがとう!」の言葉をアナウンサーが泣きじゃくりながら連呼する。また、大笑いできる漫才・コントがマスメディアを席巻し、お笑いシアターはいずこも大盛況のようである。

このように、スポーツやイベントをはじめ、映画、舞台、音楽、出版、ゲームや旅行といった、感動を生み出す商品やサービスは、今日の日本経済でもっともホットな市場である。民間大手のシンクタンク三菱総研とgooリサーチが2003年にインターネットを使って実施した感動に関するアンケート調査の結果によると、"感動するために意識的に行っている行動(レポートでは「感動探し」と呼んでいる)"のビジネス市場規模は5兆円と試算している。感動探しは中高年ほど割合が高まり、60代では57.6%が行っているという。そしてそのために使う平均金額は、ひと月当たり平均1万1,400円で、これをベースに市場規模を算出した結果、感動ビジネスの市場規模は年間5兆円にのぼるというのである。ちなみに、感動探しの世代別内容は、10代・20代は「映画を見る」、30代・40代は「良好な家族関係の維持」、50代・60代は「旅行に行く」「自然に触れる」が主なものであった。

また、感動体験の頻度を年代別に見ると、「1ヶ月に1回以上」の割合が「10代」50.9%、「20代」48.6%と年代が若いほど高いのに対し、「50代」30.7%、「60代」33.9%と、年代が高くなるにつれて頻度が減る傾向にあるという。そのため、高年齢になるほど感動探しに積極的になるものらしい。
 
とはいえ、感動への欲求がどんなに旺盛でも、多くの人がそれを満喫するために費やせる時間には限度がある。だから、この市場に注目した供給側としても限られた時間で得られる感動を最大化するために、いろいろと工夫する。
このところ、企業が行うマーケティングでは、この「感動」をはじめ「共感」、「物語性」、「五感への訴求」といった感性領域のキーワードが急増している。また、モノであれサービスであれ、消費者側もそういった要素を含む商品をもとめていることは確かで、事実そうした視点による商品やサービスの開発は、リピータや利益の向上に大きく貢献しているようだ。
 
とはいうものの、このような主観的で曖昧性の高い価値意識は、これまで個々人の感覚でしかとらえることができないとされてきたものである。だから、読み違えて商品を開発したり供給する可能性だって大いにある。
であるならば、そうした「感動」や「物語」などといった不安定なものを、今日のマーケティングは経済活動や企業行動というリアルかつ実践的な行為に向けて、それをどのように方法化しようとしているのか。
ただし、そのことに立ち入る前に、しばし、こうした状況のバックグランドをみていくことにする。

連載にあたり"感動研究事始"と題したのは、なにも「蘭学事始」にならい高い志を持って考究に臨む、という決意表明からではない。「感動」を研究する必要にせまられたので、とりあえず、「事を始めて」みようといったにすぎない。

したがって、この連載は研究報告や論考ではなく、それ以前の手習い作業の状況報告であり、その中で読んだり見聞きして知った事柄についての心覚えやメモ控えのようなものである。それゆえ、知識情報不足や間違い、いや、誤謬以前に常識足らずのことだって必ずある。したがって、それらについては指摘があったり、気付いたら、そのつど、言い訳、加筆、修正していくことにする。いい加減なようだが、要するに、これが本連載の基本スタンスである。

そのようなわけで、現在のところ「感動研究」についての知識はほぼ白紙状態である。なんとも心もとないようだが、白紙でもそれに多少なりとも色がついていけば、それはそれで何かしらの意味が出てくるものである。そんな気楽な構えで、とりあえず「事」を始めてみようと思う。

2009年4月1日、感動創造研究所サイトを公開しました。