「共感」コミュニケーションで拡がる、利他的・互恵的な?思いやりの行動〝にみる、これからの社会づくりの可能性とは?
このことわざを逆の意味にとり誤解されるのは、よくいわれます。実際、国語の世論調査でも約48%の人たちが誤用していたようです。もちろん、正解は「情けは人のためだけではなく、いずれは巡って自分に返ってくるのだから、誰にでも親切にしておいた方がよい」ということです。
さて、寄付やエシカルなものへの共感、ボランティア活動参加などの自己利益を犠牲にする利他的な行動が、社会に急速な高まりを見せるようになったのは、『3.11』直後の社会的衝撃からの、一時的な反作用なのでしょうか?
先の意識調査でも明らかなように、寄付やボランティアを体験してみると、自己負担感よりも、他人のための行ないが快さとして再帰し、自分にプラスとなる充足感を得たという感想が多い。この体験から、利己心と利他心のベストミックスな調和を自覚したことで、ある種の経済的な整合感のようなものを得たから、と捉えることは無理でしょうか?
これまで「利他」の動機や効用は、自己顕示の側面から語られすぎた風もあり、もっと素直に、このベストミックスの配剤として、感動や共感の体験が大きく作用したこととは言えないか?
つまり、世の中が既に胚胎していた新しい意識転換を促すスイッチが、震災直後の社会的な興奮の中で押され、感動と共感の反応となって拡がり「滅私奉公」ならぬ「活私奉公」の熱狂として顕在化したのではないか。もしもそうならば、この行動には大きな意味があります。ひょっとすると、利他的行動の動因を見つめ直すことから、既存の経済理論やマーケティング、あるいは投資理論などで、これまで手薄だった部分が見えてくるかも知れません。
もとより、大震災よりずっと以前、ことバブル経済期を境とした"失われた20年"の景気低迷を経て、人びとの価値志向が心や社会性に傾き、地球規模での有資源性や環境問題への意識が高まるにつれ、「エシカル消費」、「ソーシャル・マーケティング」、「フェアトレード」、「グリーンコンシューマ」、「社会的責任投資」などの、経済活動と社会性や倫理を結び付けるビジネスづくりへの傾斜は顕著でした。
思想家ジャン・ボードリヤールは、著書『消費社会の神話と構造(1972)』で、消費社会では商品やサービスは、生活者のニーズやウオンツを満たす「記号」として消費されるとし、イデオロギーや価値観も交換対象の記号となり、消費対象になると指摘しました。とすれば、今日の「消費対象としての記号」は、利他性や絆や、人が生きるための本質的なニーズなのかも知れません。
これまで、利他的・互恵的な社会行動は、主にエコロジストや宗教者などによるマイナーなものでした。「合理的で利己的な経済人(homo economicus)」と「自己利益最大化」という、ふたつの前提で、理論やモデルを組み上げ社会やビジネス行動を捉える立場の論調が、かつては主流だったこともあるでしょう。
ところが、最近の脳科学の知見では、人間と一部の霊長類だけが、直接の見返りの期待ができない赤の他人にも、利他的行動を示すといいます。欧米では高額な寄付行為が顕著なので、利他的や互恵的な行動は、経済学でも重要な研究対象になっており、生物学や心理学、人類学なども加わって、そのメカニズムを解明する研究が盛んです。
そうした研究からは、人が寄付をすると線条体と呼ばれる、快楽の報酬に関する脳部位が活動することや、他人が痛みを受けているのを見ると、脳の左島皮質という、痛みの体験や喜怒哀楽や不快感、恐怖などの基礎的な感情にかかわる部位が"共感"の神経的基盤として働き、その活動が高い人ほど他人を助けることなどが報告されています。
実際に面と向かって「情けは人のためならず」などといわれると、お説教を受けているようであまりいい気はしませんが、他人や社会にメリットがあり、自分としても共感や感動などの、心の充実と生きる活力が得られるものは、これからの時代、より強く人びとのニーズとウオンツに応える商材としても広がりを見せることになるのではないでしょうか。