"感動して泣くこと"を求める若者たちが巷に増えている。昨今の感情表出のあり方が変わったのだろうか?
涙活(るいかつ)」という活動が流行っているようです。感動して泣ける映画や詩の朗読を鑑賞したり、僧侶の説法や感動する話を聞いたりする、能動的に泣きたい人たちが集まるイベントなのだそうです。「涙ソムリエ」なる専門スタッフもいて、"心が揺さぶられる涙の種"をおすすめするそうです。
感情の発現として泣くのは人間特有の現象で、医学的にも、感動や悲しみによる情動の涙には睡眠と同じリラックス作用があるようで、ストレス社会の隠れたウオンツに目を付けたユニークな商売だと思います。
同じ被験者の、感動映画を見せて集めた涙と、タマネギを剥かせて集めた涙を成分比較すると、感情による涙のほうが高濃度のタンパク質を含んでおり、平常血中の30倍のマンガンも含まれていたそうです。血中マンガン量が一定以上になるとうつ病リスクが高まるという説があり、涙を流してマンガンを体外排出することは、うつ病予防につながるかも知れません。また、泣くとすっきりするのは、脳内の鎮静物質エンドルフィンの増加が関係しているからです。
ところで、人前で泣くことをはばかるようになるのは、成長とともに対人関係での感情制御を、社会スキルとして学んでいくためです。つまり、社会的な場面で涙を流すことは、感情表出の制御の失敗を意味し、自分の弱さを露呈させ、結果的にマイナス評価を受ける可能性があるからです。
また、悲しみ・喜びを問わず"もらい泣き"というものもあります。これは共感に心を動かされての涙ですが、相手の共感を期待して流す涙もあるでしょう。泣き女とか泣き屋という、葬儀で泣く女性の専門職が世界中に古くからありますが、これは弔いの悲しみの共感を誘い増幅させる仕事です。また、W杯やオリンピックの優勝などで「感動」や「涙」がテレビや誌面を一杯に飾るのも、歓喜の共感を増幅する仕掛けといえます。
思想家ロラン・バルトは「いつから男は泣かなくなったのか。なぜ『繊細さ』はある時『感傷癖』へと一変したのか。男らしさのイメージは流動的である。ギリシャ人や18世紀の人間は劇場で大いに涙した」といいましたが、近頃の若い男性に「泣き男子」という、人前でもはばからずに泣く者が増えたといいます。それを20?30代女性の八割が支持している、という調査結果もあります。実際「涙活」には若い男性の参加が意外と多いそうです。
心性史という、人びとの思考様式や感覚などを対象に研究する、新しい歴史学があります。その気鋭の一人ヴァンサン=ビュフォーに『涙の歴史』という、18世紀から19世紀のフランスにおいて、人がいつどこで涙を流してきたかという観点で近代的感性の誕生と変遷を調べた、ユニークな歴史書があります。その中でビュフォーは"近代フランスの涙の文化史"には、ふたつの大きな転換点があったといいます。ひとつめは18世紀からフランス革命後までとしています。当時は、小説や芝居などの作者が真情吐露した甘美なロマンに共感して、感動に涙するのが"泣き"の中心でした。ふたつめは19世紀前半から後半の時期。この頃には、そうしたロマン主義的な感情のひけらかしや、苦悩する芸術家のセンチメンタリズムなどを嫌悪して軽蔑する、ダンディズムやリアリズムのような新しい美学が登場しました。従来からのメロドラマも庶民に人気はありましたが、台頭してきた中産階級の市民たちは、その文学的価値を低くみることで、自分が洗練した趣味人であると誇り、優越感を覚えたといいます。
それ以後、滅多矢鱈に公衆の面前で泣くのをはばかる態度が広がりました。表面的には気取った仏頂面でも、内面では"主体的な真の感動"を究めるのを望む意識に変わったのでしょう。
日本でも江戸から明治に移ると、人は以前ほど泣かなくなった、と柳田國男が「涕泣(ていきゅう)史談」で論じてます。つまり教育が普及するにつれ、言葉で感情をつたえる技術が磨かれたため、"泣く"という身体言語での感情表明が減ったというのです。また、評論家山崎正和も、近代自我確立期のそうした明治人の感情表出の変化を"不機嫌の時代"と評しています。
「感動したい!」、「泣きたい!」という欲求をみんなでシェアし合うのは素直なことだし、ストレス解消にもよいとは思いますが、感動は自分自身の主体的な感情です。大量に安売りされる感動や涙を安易に消費し続けていると、自分本来の感情を見失ってしまい、"自己の内面性の空虚さ"がなかなか埋まらないようにも思えるのですが...。