"集団的熱狂"は"集団的感動"なのか?これらの違いにひそむものとは?
スポーツ観戦やコンサートなどで、感動体験をともにする群衆が巻き起こすパワーには、圧倒的な迫力があります。こうした集団的熱狂は、価値観や個別の属性を超えて一体に同調しているように見えます。この"感じて動く"烈しい力は、時にフーリガン暴動や群集事故などを引き起こすこともありますが、しばしば、地域、民族、言語などを越えた深い交流の場も生み出します。
熱狂と感動は表面的に、心が大きく動かされるという点で類似した感情反応のように思えますが、集団的熱狂は集団的感動といえるのでしょうか?
国語辞典では、熱狂は「狂わんばかりに、夢中になること」と示し、感動は「深く物に感じて、心を動かすこと」とあります。熱狂は一過性で、対象のイベントなどが終了するとすぐに元の平常心に戻ります。たとえ、マニアであっても特定の事柄に常に熱狂しているわけではありません。
また、民族心、集団心、群衆心理、集団表象などの言葉はありますが、別に集団に心があるわけではなく、心は個人の中にあるだけです。これらのいい方は、集団を構成するメンバー間の相互作用がつくる心理的な「場」を指します。だから、その相互作用が起こりやすい環境を用意すれば、熱狂はうまれやすくなります。
ところで、熱狂の昂ぶりや感動する感情の連なりの中に「感激」があります。辞書には「深く感じて気持ちが奮い立つこと」とあります。
感動も感激も、何らかの価値を志向する点では同じですが、感動は、何らかの価値を志向している人に、その価値や意味を認知させ、その後の行動や考え方・感じ方など全人格面に強い影響を与えます。一方、感激は、人がその時点で志向していた価値が直撃された心の衝撃をいいます。つまり、感動と感激は、心に受けた衝撃の余韻の度合いや深まり方での違いです。
時にこうした衝撃は、人を思考停止状態に陥れることもあります。
ヒトラーは、著書『わが闘争』で大衆動員の戦略について、大衆は感情に動かされること、暗示にかかりやすいこと、集合体の意志に盲目的に従うこと、などをあげ、大衆の熱狂を巧みに演出し誘導することで、ナチス・ドイツを誕生させました。こうした、政治や思想面での大衆誘導が目的の宣伝活動をプロバガンダといいますが、世の中にあふれる広告宣伝も、流行という熱狂づくりによる消費拡大を煽動する目的から、同じ基本原理にあります。
とくに集団的熱狂下で煽動されると、人びとの意見はある特定の方向に傾斜する同調現象が起こりやすくなります。この集団熱狂の同調圧力は異論を圧殺して、同調を強要するムードを生み、同調反応をしない者を排除する傾向になりがちです。その極限にあるひとつがファシズム状態の社会です。独裁国家では、マス・ゲームや式典、大集会などの、集団的熱狂を感動体験に錯覚させる機会を数多く設けて、国民の人心掌握と管理をねらいます。
ナチス・ファシズム下のユダヤ人強制収容所を過ごした、精神医学者のフランクルは著書『夜と霧』の中で、早く死んだ者に共通するプロセスは、絶望→無感動→死、だったと記しています。フランクルは過酷な状況の中でも、美しい自然に感動し、芸術を愉しみました。感情が烈しく摩耗していく中でも努めて感動することで、希望への志向と理性を保持し続け、極限状況を生き延びたのです。
フランクルは、人間だけが持ちうる価値意識には、「創造価値」、「体験価値」、「態度価値」、の三つがある、といっています。創造価値とは、人間が仕事をしたり、芸術作品を創作したりする行動で実現される価値です。次の、体験価値は、芸術を鑑賞したり、自然の美しさを体験したり、人を愛することなど、人間が何かを体験することで実現される価値です。
最後の態度価値は、人間が運命を受け止める態度によって実現される価値です。つまり、病気や貧困やその他の苦境で、活動の自由(創造価値)を奪われたり、楽しみ(体験価値)が奪われても、その運命を受け止める態度を決める自由だけは人間に残されている、ということの価値です。フランクルは、強制収容所の極限状況下にあっても、人間らしい尊厳のある態度を取り続けた人が少なからずいた体験に気づき、人間の最後まで実現可能な価値である態度価値を重視しました。
だから、心を強く揺り動かされた体験が、一時的な熱狂や感激に踊らされることなく、それを感動体験として心に深く刻み、自分のよりよい未来づくりに向かう力の糧とするためにも、日頃から知性と感性を磨くのを怠らず、豊かな経験を得ることに心がけるのは、とても大切なことだと思います。